宇治市街遺跡で摂関家別邸遺構検出。

No.4127

 宇治市宇治里尻(JR宇治駅近く)の宇治市街遺跡の発掘調査地(3千平方㍍)内の南西部分(3百平方㍍)で、平安後期の貴族邸宅の遺構(柱穴・礎石など)がみつかり、大型縦板組井戸や大量の土師器皿・平等院と同じ唐草文様の軒瓦が出土したとのことです。
 宇治市歴史資料館のコメントによると、藤原頼通の別業宇治殿や池殿が候補にあげられるとのこと。また、ここは宇治に於ける別業邸宅群の想定範囲より約3百㍍北に位置するために、現在わかっている範囲でも東西2㌔、南北7百㍍以上ということになり、平泉に匹敵する規模に近づいているということです。
 私は、これまで摂関院政期の宇治が平安貴族の雅(みやび)な別荘地といったイメージによって、都市として過小評価され過ぎてきた(規模・機能とも)と考えていますので、この成果には肯けるものがあります。
 現地説明会は23日午前10時から15時30分まで。

 ☆ 来年度、共同研究に参加されるメンバーは、ぜひ見学しておいて下さい。
 なお、上の情報は本日付の京都新聞および朝日新聞(南京都版)によるものです。ちなみに、朝日新聞にはヘルメット姿の大原さんの写真が掲載されています。

Re: 宇治市街遺跡で摂関家別邸遺構検出。

No.4128

さきほど宇治市歴史資料館へ電話をしてみました。
場所は、ユニチカの敷地一部(売却地)だそうで、一番宇治川に近いあたりのようです。
先日、JR宇治駅の南東で、院政期の道路が出ましたが、今回は駅の北側の一帯です。
ユニチカの敷地あたりには、何もないかも、という話もありましたが、やはりあった。
すごいですね。宇治は、院政期最大の権門都市かもしれません。
明日、私も現地説明会に行く予定です。
なお明日は、JR宇治駅から、案内板が出ているそうです。

院政期最大の権門都市

No.4129

 美川先生、情報のフォローをありがとうございました。
 まだ私は都市論研究の「かけ出し」ですが、美川先生の御指摘のとおり、宇治は白河・鳥羽などよりも地に足の着いた、たいそうな権門都市であったと思っています。
 中世前期の宇治については文献史料も豊富ですから、面白い研究が出来るものと楽しみにしています。
 当ゼミの共同研究にたいする美川先生の御指導、よろしくお願い申し上げる次第です。

 >ゼミメンバー諸姉兄  ゼミで使用するための図書や消耗品など、購入希望のものがありましたら、遠慮なく御連絡下さい。月末までにお願いします。

 >来年度共同研究のメンバーの諸姉兄  個別のテーマ、研究計画・方法などの御連絡、お忘れなきようにお願いいたします。26日締切です。

 >山内さん  後期の予定について、他の大学の方たちはすでに明らかになっているとのことですから、例会などの日程調整、よろしくお願いいたします。

Re: 院政期最大の権門都市

No.4132

行ってきましたよ。なんて広い発掘現場でしょう。
過去の宇治市街遺跡では最大規模で、南北60m、東西50m。

中央東西方向に幅17m、深さ70cmの流路。
自然の河川を改修して、園池とした平安後期の施設が目につきます。
そして南側に平安後期の塀跡柱穴、あるいは建物跡が。大きな井戸もあります。
そして、宴会で使用され廃棄された大量の土器。
北には巨椋池が広がっており、それに面した園池をともなった大規模な邸宅です。
JR北側のこのあたりは湿地で、たいした遺跡がないと思われていたのですが、
予想外です。こんな立派な貴族邸宅跡が遺されていたとは。

ここを含めると、宇治市街遺跡は南北700m以上、東西2km以上におよびます。
鳥羽や白河が1.5km×1kmぐらいですから、それを上回る規模です。
鎌倉が南北2km 東西1kmぐらいで、それに近い規模です。
これからは、宇治と鎌倉、平泉などとを比較する視角が必要となるでしょう。

これからがおもしろい宇治でした。

やはり宇治は最大の「権門都市」でしょう。

No.4133

 遺構の検出地点は邸宅の付属施設のあったところのようで、中心部は東西南のいずれかに存在したもののようです。何れにしても、泉殿跡に比定されている矢落遺跡のあたりまで、巨椋池に面して摂関家関係の邸宅がならび、そこには船着きも完備されていたようです。歴史資料館の方が、京都から宇治に来るには、流れの激しい宇治川本流からよりも巨椋池が利用されたのではないかと仰っておられましたが、なるほどと思いました。今回検出された遺構の北を仕切る両岸に洲浜のつくられた流路は巨椋池と結ばれていたとのことです。
 こうしてみると、複合権門として栄華を誇った忠実期の宇治は、さぞかしの大都会であったように思います。摂関家に祗候した軍事貴族の宅もこの辺りにあったのかもしれません。
  
 本日、来年度の共同研究のメンバー数名とお目にかかりましたが、そのうちの一人、岩田君から研究テーマについて次のような回答を頂きました(要約)。 
 「宇治川北岸地域(木幡・黄檗・三室戸付近)と藤原氏との関係、及びその展開」がそのテーマです。藤原氏の葬地、祖先の祀られる地として、この地域を考える。そのために、古文書・古記録類から、木幡とその周辺地域に関する記述を蒐集し、その土地利用の在り方や、祖先祭祀の在り方に分析を加えたいということです。
 共同研究の地域的対象としては、宇治から木幡、さらには伏見までも視野に入れてもよいと考えています。
 岩田君のテーマ、了解いたしました。ほかの皆さんも早々にお知らせ下さるようにお願いいたします。
 なお、本日、現地説明会の際に、いつもの大原さん・京女の渡辺さんをはじめ、龍大4回生の大坪君、京女2回生の宮林さんなど、考古学に取り組んでおられる多くの若い方々の御挨拶を頂きました。本当に頼もしい限りです。

宇治市民ではありますが

No.4134

 恥ずかしながら今回初めて、宇治市内の発掘調査の現地説明会に伺いました。見たのは見たのですが、それが何を示すのかもっといろいろ勉強しないといけないと思ったのが、一番の収穫でした。すいません。

>野口先生 テーマのご紹介ありがとうございます。ご連絡しました通り、宇治には住んでいるだけであまりよく知らないことばかりですし、まずは各種事例を蒐集して、その上でいくつか気付くことがあればと思います。木幡は近所一帯ですし。
 研究テーマについては、また他のみなさんとも相談させて下さい。みなさんよろしくお願いします。

堪能しました。

No.4137

ばっちし朝の10時に、ゼミメンバーでは一番乗りを果たしました(笑)。
発掘調査の現地見学は久しぶりだったのですが、実に良い物を見せていただくことができて、本当に幸せでした。
現在発掘されている場所・出土したものだけではなくて、
今自分の足元には、いったい何が埋まっているんだろう?と思わせてくれる遺跡でした。
(現場の南側に、さらに邸宅跡がきっと広がっているはずですよね…)
邸宅の主要建築部分(寝殿等)がどのようなものだったのか、街路区画はこの地域まで整備されていたのか、などなど、
今後の更なる進展が楽しみです。

発掘現場に行く時は、たいていゼミの行事や授業の一環として行っていたので、
現地説明会に参加したのは初めてだったのですが、
現場の方々はみなさん本当に懇切丁寧に説明して下さいました。ありがとうございました。
そして、先生方にも詳しく説明していただけて、イメージを膨らませることができました。ありがとうございました。
来年度の共同研究に向けて、これからもいろいろな機会に参加していきたいと思います。

宇治研究の基本文献。

No.4139

 この機会に摂関時代~鎌倉時代の宇治を考える際に必備の参考文献を紹介します。
 ○『宇治市史』1「古代の歴史と景観」(1973年)、同2「中世の歴史と景観」(1974年)
  編集責任者:林屋辰三郎・藤岡謙二郎をはじめ、執筆者も一流の研究者をそろえ、自治体史としてはきわめて優れた内容であるが、残念なことにこの時代を対象にした資(史)料編は刊行されなかった。
 ○『宇治市史年表』編集責任者:林屋辰三郎(1983年)
  『宇治市史』とは別に単独の利用価値をもつものとして刊行された、史料台帳の機能をもつ本。まさしく必備!
 ○西山恵子(序文:村井康彦)『平安時代の宇治 王朝文化の語り部たち』(宇治市歴史資料館、1990年)
  著者は京女史学科出身。
 ○礒永和貴ほか『宇治をめぐる人びと』(同、1995年)
 ○杉本宏ほか『発掘ものがたり宇治』(同、1996年)
  上記3冊は宇治文庫というシリーズに含まれる。
 ○『佛教藝術』279特集「宇治の考古学・藤原氏別業の世界」(毎日新聞社、2005年)
 最新の考古学的成果はこれに網羅されている。文献史学の成果をリンクさせる必要を痛切に感じる。
 なお、宇治市歴史資料館では発掘調査の報告書類なども販売しています。当ゼミとしても相当数、購入の要ありです。

 ☆ 同志社女子大学の朧谷寿先生から、御共著『見果てぬ夢-平安京を生きた巨人たち』(ウェッジ)を御恵送いただきました。あつくお礼申し上げます。