「女性史総合研究会」例会の御案内。

No.3935

 今週末に開催される女性史総合研究会例会の御案内です。専攻の時代・ジャンル(歴史学・国文学など)を問わず、ゼミメンバー・京都女子大学在学生諸姉(もちろん、それ以外の方も)の積極的な参加を期待いたします。目標にしうる先輩に知り合えるチャンスになるものと思います。すこし無理してでも、一度出掛けてみることから全てはスタートするのです。

   ◇女性史総合研究会 7月総会・例会のお知らせ◇

日 時: 2005年7月16日(土) 総会 PM12:00~13:00 例会13:00~17:00
場 所: 京都アスニー 3F研修室
    ≪京都アスニ-≫ 〒604-8401 京都市中京区丸太町通七本松西入ル ℡(075)802-3141
  http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/about/institution/honkan/honkan_map.html
   
報 告:「『戦争・暴力と女性』(西村汎子・早川紀代編)をめぐって」(全三巻 吉川弘文館刊 2004~2005年)
      大利 直美氏  ( 一巻担当 ) 荒井とみよ氏  ( 二巻担当 )
      曽根ひろみ氏 ( 三巻担当、神戸大のゼミ討論より )
 ※当日は一巻ご著者の西村汎子氏、2巻ご著者の喜多村理子氏にご出席いただき、書評・討論会にしたいと思っております。皆様のご意見をお待ちしております。

「一ノ谷」を往復した手前、一言。

No.3938

 本日、姫路で講演があり(次回は近藤好和先生)、JR西日本の新快速で一ノ谷(須磨臨海公園のあたり)を東西に往復いたしました。大河ドラマに口出しするのは、なるべく遠慮すべきなのでしょうが、一ノ谷の合戦がテーマの放送の前後に現場を二度も通ったのも何かのご縁ということで一言。
 まず、「一ノ谷の戦い」という呼称に大きな問題があります。この合戦の戦場は、この呼称から「一ノ谷」(現、神戸市垂水区)に限定されて認識されがちですが、事実の上からは福原・輪田・須磨の全域が戦場になっているのですから、『兵庫県史』第二巻のいうように「福原兵庫合戦」とでも呼ぶのが相応しく、「一ノ谷の合戦」は地理的に戦場を圧縮したもので、鈴木彰先生の指摘されるように、『平家物語』における一ノ谷は、物語によって創出された架空の空間なのです(「「平家物語」と<一ノ谷合戦>」『古典遺産』50)。
 したがって「鵯越」を一ノ谷の後山とするのはフィクションであり、鵯越の逆落としを実行した主体も『玉葉』2月8日の記事から、義経ではなく摂津源氏の多田行綱であったことが明らかといえましょう。
 ちなみに、本来の「一ノ谷」というのは、鉄拐山・鉢伏山の南東急斜面に形成された三筋の浸食谷の一つで、南は海が迫り、その間を山陽道が貫通しており、北と西からの敵を遮断するための城郭を構築するには適切な場所であることは確かで、平家がそれなりの防御施設を構築し、主要な戦場となったことは間違いありません。
 つとに喜田貞吉氏は、大正10年に刊行された『歴史地理』第38巻3・4号所載の論文「鵯越と一ノ谷」において、『延慶本平家物語』第五本十五の「こゝは究竟の城なりとて城廓を構て、・・・一谷は口は狭て奧広し、南は海北は山岸高して屏風を立たるか如し、馬も人もすこしも通へき様なかりけり、誠にゆゝしき城也」という描写が、福原・輪田一帯の地を一ノ谷方面から見たものと捉える限りにおいて現況地形と整合することを論じているのですが、こうした先学のすぐれた見解が、最近に至るまで、学界においてすら常識的な共通認識とされていなかったようです。
 なお、一ノ谷に関する私の見解について、詳しくは、『古代文化』57-4掲載の拙稿「平家の本拠をめぐって」を御参照いただければ幸いです。