「三浦の石田次郎為久がうち奉たるぞや」

No.3901

 『平家物語』で最高の名場面といわれれば、多くの人が「木曾最期」をあげるでしょう。御多分に漏れず私も高校時代、古典の教科書で、これに感動。「木曾左馬頭、其の日の装束には・・・」以下をそらんじて(当時の記憶力がいとおしい)、ギターで平曲にチャレンジしたりしておりました。あの時の古典の先生は、野球部の監督などもしておられましたが、学者肌で、その情景が眼前に展開するかのような、なかなか味のある授業をしてくださいました。『平家物語』を教材に使う場合、国語の先生は琵琶法師に徹するべきだとおもいます。これが、「文法がどうの」「入試出題の頻度がどうの」という授業では、まったく味気ない。ちなみに、30年ほどのちに、この先生と某大学で同僚になったのは奇遇でありました。
 さて、その「木曾最期」で義仲を討ったのが石田為久ですが、このことが確実な史料によって確認できることを、先日御恵送いただいた菱沼一憲『源義経の合戦と戦略』で知ることが出来ました。三条実房の日記『愚昧記』に義仲を討ちとったのは「義経郎従字石田二郎」と明記されているのです。菱沼先生はこの記事を前提に、宇治から入京した義経軍が、そのまま義仲軍を追撃して大津の打出浜で義仲を捕捉したとの推測を示されていますが、慧眼と言うべきでしょう。
 ちなみに、義経軍の上洛についての最新の研究としては、上記の他に、元木泰雄「頼朝軍の上洛」(上横手雅敬編『中世公武権力の構造と展開』吉川弘文館、2001)、川合康「治承・寿永内乱と伊勢・伊賀平氏」(同『鎌倉幕府成立史の研究』校倉書房、2004)があります。平家諸本の記事をならべて、上洛軍のルートを考えながらお読みになると面白いと思います。

 ☆ 昨日、公開講座で御講演を頂いた高橋慎一朗先生より、当ゼミの研究活動に資するために、御高論「戦国期の仏陀寺を支えた人々」掲載の『寺院史研究』第6号および『東京大学教養学部美術博物館資料集2-有職故実類-』(2冊)をいただきました。あつく御礼申しあげます。 

『愚昧記』のこと

佐伯真一
No.3902

 このところご無沙汰しております。講演会も行きたかったのですが、結局うかがえず、失礼致しました。
 さて、今日は大河ドラマも木曽最期でしたが、やっぱり文学研究の人間は、ここを一所懸命に読みます。この部分の『愚昧記』の記事を紹介した研究書としては、管見の範囲では、平田俊春『平家物語の批判的研究』中巻1067頁が古いかと思います。当日の記事、僅かながら翻刻があるのも嬉しいところ。木曽最期関係では、他に、『醍醐寺雑事記』について指摘しているのも、比較的珍しいのではないでしょうか。平田氏の立場はともあれ、また、出典や諸本の考証の全体的結論への賛否も別としてですが、やっぱりこの本は大した本だと思っています。
 なお、蛇足ですが、拙著・三弥井古典文庫『平家物語・下』は、『愚昧記』・『吾妻鏡』の石田次郎説と、『愚管抄』の伊勢三郎説を並べた上で、古典集成の「諸説錯綜」というのを引くだけで逃げています。菱沼さんの指摘は、琵琶湖畔で死んだ義仲を討ったのが、範頼軍ではなく義経軍の武士だったとする点、『愚管抄』の説とも一面で整合性を持つことになるところが、面白いと思います。『平家物語』では、義経は直ちに法皇を守護したということになっているのですが…。

「東軍一番手、九郎軍兵加千波羅平三」

No.3903

 佐伯先生、お久しぶりです。
 歴史学側の業績について見落としており、また先生の三弥井古典文庫『平家物語・下』も参照しておらず、汗顔の極みです。御教示ありがとうございました。
 承久の乱における幕府軍の動きを見ても、宇治から大和大路を北上するのが大軍による京都侵攻ルートのように思います。この辺りの状況については『玉葉』寿永3年正月20日条に詳しく、木曾方で宇治を守っていたのは美濃守義広。しかし、義広は討ち取られて「東軍」=義経軍は簡単に入京したようです。義仲は院を連れ出そうとしたところ、敵軍が襲来したので院を「棄て奉」って「周章対戦」して落ちていったとありますから、義経は院御所に参向したにせよ、義仲を追尾、捕捉したのは義経の配下の武士だったということなのでしょう。ちなみに、義経軍の一番手として入京したのは「加千波羅平三」=梶原景時でした。
 それにしても、こういう細かい戦闘経過など、歴史学の方では結構「アナ」になっているようで、諸記録・平家諸本の記事を国文学の成果に導かれつつ、しっかりと読み込んでいく取り組みが必要なようです(少なくとも私には)。
 なお、『玉葉』同日条において、記主兼実が義仲の没落を平治の乱の信頼になぞらえているのが興味深いところです。信頼を再評価された元木先生から一言いただきたい記事だと思います。