ご無沙汰しております

遠藤明子
No.3889

 野口先生こんにちは。いかがお過ごしでしょうか。

 三浦一族研究会の総会ではお伺いすることができず大変失礼いたしました。

 先日、先生の「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだか」新人物往来社を再読したいと思い、図書館で借りてきました(家のスペースがないので実家に持って帰っていたのです…すみません…)

 そうしたら217Pの4行め「三寅は頼朝の姉の曾孫にあたり」という一文に鉛筆で傍線が書き込んであり、しかも「姉」に×して「妹」と記入してあるんです。

 これを書き込んだ人は「ここ間違ってるじゃないか。直してやらなにゃあ」という親切心(お節介だよ!)だったのかもしれませんが、そもそもあれは頼朝の「姉」ですよね。
 私は「証拠となる記録(あるいは傍証)がある」という話しか知らないのですが、もしご存じでしたらご教示いただければ幸いです。そのページをコピーして挟んで返却してやります(やめなさい)。
 というかそもそも図書館の本に書き込むなんてもう。勘違いも含めて説教してやりたい気分です。

 でも野口先生、同じ見開きの216P14~15行め

「二階堂行光が鎌倉へ下向の際、頼家の遺児で仁和寺に入っていた禅暁を伴っていることは~」

 とお書きになっている部分について私は「禅暁が鎌倉に来たことがある」と解釈していたのですが、教えていただいた史料と『吾妻鏡』をつきあわせる限りでは確かに禅暁が鎌倉に行ったという確証が得られないのです。
 私は「禅暁は仁和寺を離れたにすぎず、京都からも出ていない」と考えているのですが、他に何か参考となる史料がありましたら重ねてご教示願えればありがたく存じます。

 そういえばまだまだ先のことながら、1月と3月は斎宮博物館で野口先生と山田邦和さまのご講演ですね。どちらも興味深いテーマで、どんなお話をなさるのか今から楽しみです。行けるといいな伊勢…。 

Re: ご無沙汰しております

No.3890

 禅暁の鎌倉下向については『大日本史料』4-15の510ページの記事を前提にしています。「下向」は鎌倉下向でしょう。「下向」ですから京都を出たことは確かでしょうが、しかし、鎌倉到着の記事はありませんから、たしかに行ったとは断定できません。
 源義朝の娘で一条能保の妻のことは、普通は頼朝の「妹」とされています。しかし、私の恩師の貫達人先生は、『吾妻鏡』建久元年四月二十日条の記事からすると姉になることと、妹だとすると結婚は平治の乱の後のことになり、能保が謀反人の娘とわさわざ結婚するというようなことがあるのかということなどを理由に妹説に疑問を呈しました(『鎌倉』84掲載論文)。私もこれに納得して従ったわけです。
 ただ、所生の高能の誕生が1176年であったり、姉とするのは不合理な点もあり、さらに最近の研究では彼女の背後には保護者として熱田大宮司家が控えていたことが明らかで、乱後の婚姻もおかしくはないと思われ、「妹」でよいように思っています。

す、すごい

遠藤明子
No.3891

 突然の不躾な質問にも関わらず丁寧なお返事をありがとうございました。

 以前教えていただいた史料は仁和寺の記録なので「禅暁くん鎌倉にいっちゃったねえ」と思っていたのは仁和寺の人だけで実は…という気がしてならなかったのです。
「大日本史料」の方も確認してみます。

 一条能保の妻については妹説の方が有力だったとは知りませんでした。ということは私の勇み足? こちらもご教示ありがとうございます。
 でも図書館の本に書き込みがあるのは問題なので消しておきますね。