追悼・小山靖憲先生

No.3763

 昨日、14日、また日本史学界はかけがえのない先達を失ってしまいました。
 小山先生のお加減がよくないということは、ごく最近仄聞したばかりでした。まさか、こんなに早くご逝去になるとは、思ってもみませんでした。突然のご訃報に接し、ただただ驚き、仰天するばかりです。
 昨年の12月に故・熱田公先生を偲ぶ会でお会いしたのが最後でした。
 その時は至ってお元気で、「タバコのみは肺がんで死ねれば本望」などと冗談を飛ばされながら、実に楽しそうに飲食しておられたのですが・・・。
 先生は荘園制研究を中心とされ、最近は紀伊などをフィールドとされて、多くの業績を残されたのは周知の通りです。そのご研究は、東京で研鑽を積まれたころの領主制的な面と、関西に来られて権門体制論の影響が顕著となった寺社領研究まで、実に幅広いものでした。東西双方の学風を身に付けられた先生は、まさに学界の重鎮とよぶに相応しい存在でした。
 こうしたメインのご研究のほか、様々な分野に興味深い先駆的な業績を残されました。
 従来、未解明だった荘園絵図に中世史の側から初めて挑まれたのも先生でした。そして戸田先生のあとを受けて、熊野古道のご研究では、まさに「先達」の地位に上られました。
 また意外なところでは、85年の講座日本史では中世身分制に挑まれましたし、さらに遡って75年の岩波講座日本歴史で公表された「中世初期の東国と西国」は、鋭い着想で、後の網野善彦氏の研究を導いた面もあったようと思われました。いわば、社会史ブームの口火を切られたと評して差し支えないと思います。
 お人柄は、親分肌でがらっ八、口は悪いが、決して後に不快感を残さない、そんな感じの方でした。
 学問的な懐の深さ、そしてお人柄を思うに、さらに学界の中心として、後進をご指導いただきたかったと、痛切に思う次第です。

 やや不謹慎ですが、先生のお人柄の一こまをご紹介します。
 泉佐野市史でご一緒した時、何度か梅田のバーにお供しました。最初は「新御堂の向こう側」。「どうだ、ここのママはきれいだろう」と仰るのですが、当方のような小心者は隣席の「小指のない客」ばかり気になり、酔っ払うどころではありませんでした。
 その次は「お初天神商店街から少し入ったところ」。入るや否や、「アラ、先生オヒサシブリネ」と、たどたどしい日本語をしゃべる東南アジア系の女性が群がってきました。カラオケを薦められたのですが、声も出なかったような記憶があります。
 何とも、豪放磊落?な面もお持ちの先生でした。
 今頃は親しくしておられた熱田先生と、冥界での御再会を喜んでおられることでしょう。
 「エー、小山君、使いやすい助手役を一人、こっちに呼ぼうやないか。あれは大手前の時も役に立ったよ」
 「そうですな、あれは太りすぎの焼き豚みいな奴だから、すぐ来ますよ」
 「それはええね。すぐに呼ぼう」・・・・・
 月曜のお通夜に出かえると、今週唯一の休日が消滅です。かくして、5月10日から6月4日まで全く休日なし。やはりお呼びがかかっているのでしょうか。

 心より、ご冥福をお祈り申し上げます。

※昨日、動転しながら酩酊状態で記したため、不備な文章になっておりました。15日15時51分に訂正いたしました。ご了承ください。 
 

Re: 追悼・小山靖憲先生

No.3764

…タイトルを見た瞬間、何の事かうまく理解できずに呆然としてしまいました。
昨年度までの、日本史研究会の研究代表としてお元気に活動されている姿しか
存じ上げていなかったので。
委員会の場では、何も細かいことはおっしゃらずに、大まかな大事な点のみを話されて、
委員会全体の雰囲気は、本当に自由にのびのびとしたものでした。
こちらは研究委員になりたての駆け出しで、お話をする機会はありませんでしたが、
何とかしてそういう機会を得ておくのだったと、今にして思います。

熱田先生がおなくなりになられた時もそうでしたが、
「その気になればお話することが出来たはず」の方がなくなられると、
どうしてその機会を自分で作ろうとしなかったのか、痛切に後悔します。
研究者を目指すものにとって、引っ込み思案は罪悪ですね…。

心から、ご冥福をお祈りします。

Re: 追悼・小山靖憲先生

美川圭
No.3765

 昨年末、ボン大学での中世史シンポジウムで、ドイツとフランスをいっしょに旅行したのが、小山さん(あえて「先生」ではなく「さん」とよばせていただきます)の最後の海外旅行だったとは・・・・。
 ボンのホテルの朝食で、小山さん「じゃあ美川さん、お先に帰りますね」と言われたのが、今生の別れとは。
 
 いっしょにフランクフルト空港へ着き、空港駅から二人で、どの列車にのるのかいな、とうろうろ。それから、ほとんどずっと小山さんといっしょに動いていたのです。あまりうまくないボンのオーケストラをいっしょに聴きに行ったし。そのあとバーで小山さんと地理の吉田さんと、ずいぶん飲んでもりあがりました。小山さんがいたので楽しかった。
はっきりいって、珍道中でした。
 あまりの喫煙量だったのが、ひどく気になってはいたのですが。死ぬまで毎年夏ヨーロッパのクラシック音楽祭に行くと言っていたのに。飛行機のなかで、朝からビールを注文していました。それから、小山さんの英語がちっとも通じない。笑いました。

 実は1週間ほど前、手紙がきたのです。旅行の写真が同封されたものです。小山さんの報告のとき、ちょっと撮って、というので、報告姿を、小山さんのカメラでぼくが数枚撮ったのです。その写真がとてもよく撮れていた、ありがとうという短い手紙が入っていました。思いっきり演台に近づいたので、たしかにぼくにしてはよく撮れた写真でした。あれが彼の最後の報告姿だったのかな。それからお礼に、去年の夏のザルツブルグ音楽祭の写真を数枚入れときますね、と、コンサートと町の写真が同封されていました。舞台写真にはいま絶頂のサイモンラトルとアーノンクールが写っていました。私がデジカメで撮ったボンの写真を、お礼にお送りせねば、と思いながら、いつものばたばた生活で、まだお送りしていませんでした。小山さんの手紙を読み返したら、「ちょっと重病入院で送付が遅れました」と書かれていました。昨年末のお元気なおすがたゆえ、まったくこちらは死の病だなんて考えもしなかった次第です。

 地方史の場で発言力がおありで、地方博物館設立時の学芸員充実など、たいへん力を発揮した学者、という話を、寝屋川市史のかたなどにお聞きしました。寝屋川市史の古代中世史料編がちょうどできたので、お送りしたばかりです。ご臨終の場にお届けすることになってしまったようです。

 私にとっては、えらい先生という感じがまったくなく、ただの気安い大阪の、ちょっと品の悪い、口の悪いすけべおじさん(ごめんなさい)、としておつきあいした、というのが実情です。喪ってみると、ほんとうに心にぽっかり穴が空いたようです。あちらの世界には、ほんとうに楽しいかた、すごい方がいるので、もうお呼びしていただいてもいいですよ。でもぼくみたいに人付き合いのわるいのはお呼びじゃないか。

Re: 追悼・小山靖憲先生

No.3766

 御病気のことなどまったく知らないでおりましたので、昨晩、訃報のメールをいただいて、愕然とするばかりでした。
 慈光寺本『承久記』について書いた拙論に、歴史学の側からの先行研究として小山先生の「椋橋庄と承久の乱」(『市史研究 とよなか』1)があったのに、それを落としていたことをお詫びする手紙をその拙論抜刷に添えてお送りしなければならないと考えていた矢先のことでした。
 小山先生とは直接ゆっくりとお話しをするような機会は得られませんでしたが、小生の研究に関連する内容の御著書・御高論は必ずお送り下さっていて、お心遣いには大変ありがたいものを感じておりました。
 小山先生は関西の研究者の中では珍しく、東京教育大学の御出身で、院生の頃には高田実氏などと茨城県で常陸大掾氏の所領支配などについてさかんに現地調査をされていたようです。小生がはじめて小山先生の御高論に接したのは、その成果である「鎌倉時代の東国農村と在地領主制-常陸国真壁郡を中心に-」(『日本史研究』99)でした。
 多くの研究をのこされた小山先生のお仕事のうち、こうした東国における在地領主制研究の成果をこれからの中世武士論研究に活かしていくこと、また上記の「椋橋庄と承久の乱」や「源平内乱および承久の乱と熊野別当家」(『田辺市史研究』5)のような治承・寿永内乱や承久の乱下における地域勢力のあり方の解明が、小生の継承させていただくべき仕事と考えています。
 本当に、余計な気を遣うことなく、出会ったらすぐに声をおかけしたくなるような先生でした。逝かれるにはまだ若すぎました。御冥福をお祈り申し上げます。