花摘む義経

No.3676

『義経』見ました。

平宗盛が、父の意に反して、幽閉中の後白河に呼び出され、
てなづけられる。あの、「幽閉」って、こういうことが出来ないように、
する処置なはずです。外部との連絡を遮断して、政治的活動を封じる。
これでは幽閉したことになりません。
脚本家が、高倉上皇が還都を主張した話とごっちゃにしたのでしょうか。

また、後白河に逢ったあとの
宗盛が、自分は清盛と時子の子ではなく、後白河の落胤で、母も時子ではない、
と疑い、そのことを時子に投げかけるという話が出てきます。
清盛が白河落胤という話から、つくった「虚構」なのでしょう。
見ている普通の人は、そういう話があったのか、と思いますよねえ。
でもそんな人物を、清盛が自分の後継者に指名するはずがないのですが。

かと思うと、北条政子が亀の前の家を焼き払わせる話。
これは、『吾妻鏡』に出てくる話が、かなり歪められています。
このドラマでは、治承四年のようですが、

『吾妻鏡』では、寿永元年11月10日条。つまり8月に政子は頼家を生む。
なんで、頼朝が浮気したかわかりますねえ。
しかも、政子は亀の前が住まわせられていた伏見冠者広綱飯嶋家を、
牧三郎宗親に命じて破却させた。ところが、頼朝が怒り、宗親の髻が切られるは、
政子の怒りで、広綱は遠江に配流されるは、たいへんな騒ぎ。
しかも、北条時政も、牧宗親に対する頼朝の処置に怒り、伊豆へ。

ドラマでは、ただの恐ろしい政子、を印象づける事件に変わっていました。
しかも、亀の前と頼朝との関係をさぐりに来た政子。どういうわけか、
亀の前の家の廻りで花を摘んでいる義経。政子と義経、はちあわせ。
よりにもよって、義経、摘んだ花を政子に。

こういう虚構をつくると、とうぜん、政子は、義経が媒したと疑うはず。
しかも、家を焼かれた亀の前は、義経にかくまわれている。
こうだと、さらに義経の疑い必定。義経と北条氏との対立に発展。
これほど、北条氏の覚えが悪い義経は、とてもじゃないが、
平家追討軍の大将などには選ばれるはずもない。
ところが、このドラマでは、そうはならないんですね。不思議ですね。

それにしても、なんで義経、あそこで花を摘んでいたんでしょうか。
もうようわからん。

Re: 花摘む義経

No.3677

美川先生、皆様、こんばんは。

宗盛が清盛と時子夫婦の実子ではないというのは、
『平家物語』の諸本の中で『源平盛衰記』(巻43)にだけ載録されている所伝です。
『盛衰記』では、壇ノ浦での時子が、「実は宗盛は私と清盛様の実子ではない。だから、重盛にも似ておらず、情けない者であるのは当然なのだ。私が妊娠した時に、清盛様が「男の子が良い」といった。しかし生まれたのは女の子だったので、清水寺の北の坂で唐笠を張って売っている僧のところの男子と取り替えたのだ」と語ったことになっています。ショック! まさに「衝撃の告白!!!」とでもいえる週刊誌ネタです。(もちろん、これは史実ではありません。お間違えのないように)。

ただ、それでも、宗盛が後白河法皇の御落胤だという話は聞いたことがありません。これはまったくの虚構ですね。

それとも、次のようなストーリーはいかが?
宗盛「私は法皇様の御落胤では?」(強く母に迫る)
時子「今まで隠していてすまなかった。確かにあなたは私の実子ではない。実は、清水寺の笠張りの僧の息子なのだ」(涙ながらの告白)
宗盛「(絶句・・・)」
〈翌日、絶望のあまり自害した宗盛の遺体発見。清盛、涙にくれる。〉。

あまりにむちゃくちゃかな・・・

Re: 花摘む義経

No.3678

>山田先生

>『盛衰記』では、壇ノ浦での時子が、「実は宗盛は私と清盛様の実子ではない。だから、重盛にも似ておらず、情けない者であるのは当然なのだ。私が妊娠した時に、清盛様が「男の子が良い」といった。しかし生まれたのは女の子だったので、清水寺の北の坂で唐笠を張って売っている僧のところの男子と取り替えたのだ」と語ったことになっています。ショック! まさに「衝撃の告白!!!」とでもいえる週刊誌ネタです。(もちろん、これは史実ではありません。お間違えのないように)。

これは、気がつきませんでした。ご教示ありがとうございます。
しかし、この『盛衰記』の話も、あまりにも「情けない」話ですね。

うわなりうち

No.3679

 昨夜の『義経』は、「ドラマだから楽しめばよいのだ」とおおらかな気持ちで見ることはとても出来ませんでした。以前の美川先生同様、いささか苦痛を感じましたので、チャンネルをかえました。

 一昨日は「平家物語研究会」(九段高校)、昨日は「軍記・語り物研究会」(早稲田大学)に出席させていただきました。「平家研」では、慈光寺本『承久記』について報告をさせていただきました。実に緊張感のない発表態度で若い方たちの顰蹙をかったことは相違ないと思っておりますが(田中さん、如何でしたか?)、でも兵藤先生に面白がって頂いたので良かったと思っております。講談社の横山さんからも励ましをいただいて『承久の乱』執筆の意欲が湧いてきました。
 「軍記研」では、樋口大祐先生の為朝論にたいへん触発されました。帰途、御一緒した樋口州男先生も同じ感想をお持ちでした。鹿児島の持躰松遺跡が阿多忠景(為朝の舅)との関係が指摘された頃から、この問題に国文学の研究者がなぜ関心を持ってくれないのだろうかと訝しく思っておりましたが、樋口先生が近年の武士論研究の成果を踏まえた上で、この点に論及されたことは「我が意を得たり」の心境でした。
 ところで、「平家研」では、学習院大学大学院生の重政誠君から『学習院大学大学院日本語日本文学』創刊号をいただきました。重政誠「『平家公達草子』「青海波」成立に関する小考」をはじめ、中丸貴史「『江談抄』壺切剣に関する一考察-書かれた口伝をめぐって-」・勝亦志織「『いはでしのぶ』の一品宮-「一品宮」の降嫁-」など、当ゼミメンバーにもお馴染みの方たちの玉稿が掲載されています。「軍記研」では、東北大学の佐倉由泰先生から御高論『『将門記』を読む』(『国語と国文学』第82巻第5号抜刷)をいただきました。また、帰宅すると神戸大学の髙橋昌明先生から御高論「清盛家家政の一断面-備後国大田荘関係文書を手がかりとして-」(笠井昌昭編『文化史学の挑戦』思文閣出版出版、抜刷)、(財)とちぎ生涯学習文化財団埋蔵文化センターの津野仁先生から「毛抜形太刀の系譜」(『國學院大學考古学資料館紀要』第21輯抜刷)が届いていました。以上、あわせて、あつく御礼申しあげます。
 なお、御紹介が遅れましたが、福田豊彦先生から、福田先生や佐伯真一先生等が参加された千葉妙見説話に関するシンポジウムの記録が掲載された千葉市立郷土博物館『研究紀要』第11号の御恵送をいただきました。あつく御礼を申し上げます。