え、論文博士廃止(暴挙)

美川圭
No.3632

山田先生が、詳しく触れておられますが、

http://heike.cocolog-nifty.com/kanwa/

中教審の大学院部会が、論文博士の廃止を答申したようです。
いったい、どういうことでしょうか。
私も、山田先生も、論博ですし、元木先生も。
野口先生もでしたよね。
まったく、この答申の意図がわからない。
博士課程に、人を集めるためでしょうが、
そんなに困っているということでしょうか。
あまりにも早急ですし、ある年代の研究者、
博士課程に進まないで、企業や研究機関に就職した
人たちを学位から閉め出す、暴挙だと思います。
まだ、学位を受けていない方々、声をいまあげないと、ひどいことになりますよ。

Re: え、論文博士廃止(暴挙)

No.3633

>美川先生

 まったく、文部科学省も中央教育審議会も、いったい何を考えているやらわかりませんね。大学院のドクター・コースを出ることが博士号取得の「王道」であることは認めてもよいですが、なぜ「論文博士」を廃止しなければならないのか、とんとわからない。新聞によると、「論文博士は研究の幅が狭い」なんてことを言っているそうですが、これは論文博士に対する侮辱もいいところです。

 私は、大学院博士課程前期(いわゆる修士課程、マスター・コース)しか出ていません。ドクター・コースには行っていないのです。しかし、コツコツと書きためた論文を30歳代後半に集大成し、論文博士をいただきました。私のように正規のコースをたどっていない者にとって、論文博士制度は干天の慈雨といったものだったのです。それを取り上げようというのですか?文部科学大臣様。

 私のやっている考古学では、研究者の大半は、学部出かせいぜいマスター出です。ドクター・コース出なんてのはめったにいない。それが、それぞれの現場(発掘現場や博物館など)でたたき上げられることによって、優秀な研究者に育っていくのです。そんな人たちによって考古学という学問は支えられています。そして、日々の仕事に追われながらも寸暇を惜しんで研究を積み重ねてきた彼ら(私も含めて)が、中年から老年にさしかかるころにやっとその果実を実らせ、博士号へと行き着くのです。それを遮断して何のトクがあるのですかね?

 論文博士廃止を決めた中教審のエライ先生や文部科学省のお役人さまの眼中には、企業や役所や末端の博物館や埋蔵文化財センターなんかに勤めていて夜や休日にコツコツ研究を進めている恵まれない研究者のことは、まったく入っていないのでしょうね。日本の学問が、エリート・コースをたどった士官候補生だけによって担われると思ったら大間違いだということがわかっていないんですね。

 >美川先生 ひとつだけお間違えです。野口先生の博士号は、『坂東武士団の成立と発展』の著者紹介によると、課程博士です。それも、恐れ多くも、「文学博士」です。
(私も「文学博士」号に憧れたのですが、それは取ることができず、私のドクターは「博士(文化史学)」です。)

歴史学では論文博士に権威あり。

No.3634

 中教審の大学院部会のメンバーに歴史学の研究者が入っているのかどうか。そこが知りたいところですね。
 小生は、すくなくとも日本史の世界では論文博士にこそ権威があると考えています。むしろ課程博士の方が肩書きとしての博士になりやすいものだと認識していました。ですから、中教審の答申はまったくピンときません。おそらく、理系など、違うジャンルの発想なのではないでしょうか。
 近年は大学院が至る所に設置され、正直に言って、ここで博士号を取得できるような研究が可能なのかと疑わざるをえないようなケースもあるので、むしろ課程博士の質の方が心配だと思うのですが。
 結局、これからは、同じ博士でも、どこの大学院で取得したか、あるいは指導教授は誰だったのか、ということで、その博士号の質を評価せざるを得ないことになるのではないかと思います。よほどの専門家でないと、その人のもつ博士号の評価は出来ないということになる。いよいよ「博士号鑑定団」が必要になりますね。「いい研究してますねぇ」とか言って。
 それにしても、日本史関係者には、博士課程に進学する必要もなく、大学や博物館に就職され、あるいは非常勤講師などを勤めながら、「いずれは博士号を」と意欲を燃やしている方が多いはずで、今回の答申は、そういう人たちに対してじつにヒドイ仕打ちだと思います。
 ちなみに、小生は課程博士です。1981年3月、1年間の審査を経て、青山学院大学から「文学博士」の学位をいただきました。青学の史学専攻では第一号のはずです。今の課程博士は論文の枚数も少なくて良いようですし、称号も「博士(○○)」、そして審査期間も短いようですから、小生の頃は過渡期だったのでしょう。高校の現役の教員が文学博士になったのは珍しいというので、勤務先の校長の手配で朝日新聞の地方版に写真入りで載せられたりいたしました。ただ、その直前の頃まで『日本歴史』に、学位取得者が紹介されるコーナーがあったのですが、小生の学位取得と軌を一にするかのように消滅したのは、これを学位の価値の消滅と日本歴史学会が評価された為なのかも知れません。 

学問と制限時間

No.3636

 あのニュースをみて、本当にはらわたが煮えくりかえる思いを抱きました。
 私はいま博士論文の作成に向けての研究を進めている最中ですが、逆に「課程博士」などという制度の方に疑問を感じます。
 大学教員への道が非常に狭くなり、アドバンテージだった課程博士号はスタートラインになっている現在。課程博士号の取得は、これから研究職を目指す私みたいな人間の至上命題となります。うちの大学も来年度から博士後期課程入学後6年以内に提出しないと、課程博士の資格自体がなくなってしまうそうです(現行は10年以内)。しかもそこには休学期間も含むそうでして…。
 昔から物事を焦ってやるとろくな事がないと言いますが、もしも自分で「急ぎばたらきだなぁ…」と思いつつ提出した博論で、万が一博士号をいただけたとしても、一生涯自分の博士号に誇りが持てないような気がします。私の周りでも「いっそ論文博士を目指そうか」という声もちらほら。依頼原稿の締切ならいざしらず(苦笑)、歴史学と制限時間は本来相容れないような…。とはいえ、小心者の私はせっせと博論作成に勤しんでおります。
 乱文ですみませんでした。
 

Re: え、論文博士廃止(暴挙)

美川圭
No.3637

>戸田さん

 私が博士課程修了したのは、1988年です。その頃は、まだ日本史では課程博士はほとんど考えられず、私も常識的に博士号取得せずに「指導認定退学」というやつをしました。当時は、実はこの名称も知らず、実際に10年後の1998年に論文博士になるまで、「単位取得」だと思いこんでおりました。
 実は私の博士号というのは、自分でも課程博士とどう違うのかわかりません。大学院以来発表してきた論文がたまり、機会をえて今年薗田さんの就職された臨川書店から論文集として出版できたのが、1996年。それだったら、論文博士もこれでとっておくか、ということで審査をお願いしたら、幸運にも学位をいただいた、という経過です。
 あとで聞くと、博士号をめぐっては、指導教授との関係とか、出身大学との関係とか、いろいろがトラブルがつきもので、ほんとうに神経をつかうものらしいのですが、私の場合ほんとうに幸運で、そういったことがある、ということをあとで知った次第なのです。ですから、「自分の出身大学では、そんなかたちでは論文博士認めてくれない」なんて話もよく聞きます。「既発表論文ではだめだ」「もう出版した本ではだめだ」なんてところもあるのですね。
 こういう経過を、時間を限定されてやれ、といわれたら、それこそ大変です。
ですから、今の若い人たちのおかれた環境には、ほんとうに同情します。

>大学教員への道が非常に狭くなり、アドバンテージだった課程博士号はスタートラインになっている現在。

 これその通りなんですね。私は、ずいぶん遅れたとはいえ、博士号なしで就職できた、最後の世代かもしれません。しかし、大学教員への道はほんとうに狭くなっています。
12年前に私が摂南大学につとめたときの担当科目と今年の担当科目を比較すると、実感できるかもしれませんので、一例としてあげておきます。

1993年 国際言語文化学部 所属
日本史学(通年) 歴史学(通年) 歴史学(薬学部)(通年) 歴史学(法学部)(通年) 文化演習(通年) 卒業研究(通年)

2005年 外国語学部 所属
国際文化概論(日本)(半期) 国際教養論(文化)(半期) 日本史学(半期)
日米関係史(半期) 日米比較文化(半期) 日米比較文化特殊講義(半期)
歴史学(工学部)Ⅰ(半期) 歴史学(工学部)Ⅱ(半期)
教養特別講義「社会と人権」(半期)
基礎ゼミ(半期) プレゼミⅠ(半期) プレゼミⅡ(半期)
文化演習(通年) 卒業研究(通年)

 12年前は、いま見ると牧歌的で、いわゆる全学教養科目も担当する日本史の教員というかたちです。
 ですから、日本中世史の上島有先生の退職後、私は採用されたわけです。
 いまは、セメスター制により、半期科目が大半になり、科目の種類が激増。
毎週、これの内容はどんなだったか、としばらく考えてから、予習に入ります。
まあ、今年から外国語学部に名称変更されたということもありますが、
この傾向は数年前からのことです。中堅以下の大学が、なんらかの資格などの
取得を目的にしないと(ちなみにうちではTOEICという英語実用検定)
学生が集められない(ほんとうかどうかわかりませんが)、ということで、
それをメインにし、それだけでは専門学校との差異化がはかれないので、
やむをえず「幅広い」教養の一つとして、私の担当するような科目もある、
ということなのです。あくまでも「幅広い」教養ですから、日本史でなくても、
かまわない。まあ外国語をやるには、日本のこともよく知っとかなくてはね、
ということです。本音をいえば、そういった教員の生首は斬れないしね、
ということなんだろうな、と私は内心ふてくされています。

 しかも、日本中世史の内容である必要がある科目は皆無。それどころが、
日本史である必要がある科目は、なんと日本史学(半期)のみ。
それどころか、日本中世史の内容ではぜったいできない科目、
日米関係史(半期) 日米比較文化(半期) 日米比較文化特殊講義(半期)
とその3倍もあるのです。

 それでも、専任の大学教員の職があるのは、非常にめぐまれているので、
いっしょうけんめい給料分は働いていますが、
ときどき、ひどく虚しく感じます。私でなくてもいいんだよね。これ。
というか、近現代史の人のほうが向いているし、
日米比較文化、日米比較文化特殊講義なんて、前は英語の先生がやっていた科目です。

 私の本務校は、まあ中堅のごく普通のまだ定員割れはしていない私大です。
 そこでの現状というのが、まさに日本史、とくに前近代史の前途を、
 ひどく暗くしている感がするのです。いかがでしょうか。

ちなみに、日米関係史は、ペリー来航から日中戦争期まで。
日米比較文化は、太平洋戦争 日米比較文化特殊講義は戦後占領期からベトナム戦争
を扱っています。そのフラストレーションのはけ口が「美川圭の辛口映画批評」です。

http://www.avis.ne.jp/~iwasaka/mikawacinema.htm