ふたたび『義経』の話題にて。

No.3604

 「もう、義経の話はしないのか」という苦言が殺到していますので、少しばかり。
 昨日の放送で取り上げられた時期は、これまでの小生の研究の主要部分に該当します。とくに頼朝の挙兵の政治・社会的背景や安房上陸から鎌倉入部の経過などがそれなのですが、サラッと扱われてアッという間に話が終わってしまい、これは文句を言う筋合いではありませんが、さみしい思いを致しました。
 ただ、三浦一族の軍事力を三千といっていたのは、何か軍記物にでも記事があるのかもしれませんが、前に北条氏の軍事力を数騎としたのに比しては多すぎでしょう。
 丹波哲郎いや源頼政も、橋合戦もないままにアッという間に討死にを遂げてしまいましたが(※)、あの場面に出てきた武士の着用していた大鎧の甲(かぶと)の「しころ」(首の後ろ側を防御するための扇のような形をした部分)は12世紀末のものにしてはやや広がりすぎているように思えました。近藤先生のコメントを期待いたします。
 それから、義経が頼朝のもとに参向した際に率いていた兵力ですが、事実ではとてもあんなに少ないとは考えられません。『源平闘諍録』には「二十騎ばかり」、古態本の『平治物語』には、何と「其の勢八百騎」と見えます。

 ※ 拙宅至近のバス停は「頼政道」。この地名は、以仁王を奉じた源頼政の一行が三井寺から南都に向かう逃亡路だったことに由来します。

Re: ふたたび『義経』の話題にて。

美川圭
No.3605

すいません。先週から2回分見ていません。ビデオには録ってあるのですが、
新学期はじまったばかりで授業の準備もあるし、書かねばならない原稿はあるし、
読みたい本はあるし。
話題のネタに見ておいた方がいいとは思いつつ、楽しくないので、見たくない。
楽しくなくても学ぶところがあればいいのだが、それもなさそうなので。
つらいなあ。なんとか、そのうち、と思いながらも、根が不真面目なので、
苦痛なことはやりたくないのです。やはり野口先生はえらいです。
元木先生も、けっきょく先週は御覧になっていたし。
前の中世舞台の「北条時宗」はほとんど第1回で挫折したので、
それよりもがんばった方なのですが。

とにかく苦痛だあ。

Re: ふたたび『義経』の話題にて。

No.3607

確かに笠じころでしたね。それだけでなく、袖に笄金物付いていたり、化粧板に八双金物が付いていたり、みな南北朝期以降の様式です。しかし、それは仕方のないことです。前にも書いたように、甲冑一領を製作するのに一千万も懸かるわけですから、新たな甲冑など簡単に作れません。こういうのは、業界用語で「アリモノ」と言って、既存のものを使用するしかありません。

そんなことよりも、問題なのは、今回のドラマでは、武将すべてが乱髪になえ烏帽子を被り、鉢巻をしていたことです。これも前にも書きましたが、源平時代にはあり得ない風俗です。これでは室町時代です。甲冑ばかり考証しても、こういう直そうと思えば簡単に直せる部分の考証がいい加減では、どうしようもありませんね。

義経一行については、兵力の少なさはともかく(私自身は少なかったと思っていますし)、問題なのは、戦闘員だけということでよ。兵粮や、また義経は小具足姿で甲冑を着ていませんでしたが(その点は良い)、その義経の甲冑は、誰が運んだのでしょうか?私はそれが気になりました。

Re: ふたたび『義経』の話題にて。

No.3608

 当方もビデオで見ました。何ともあわただしい話でしたね。

 それにしても、何で頼政は敵のまん前に立ってすぐに討たれるのですかね。何とも間抜けですな。それを知盛が射てるのを誰も気づかないというのも御伽噺ですな。ついでに言えば、彼がこもった建物はどこなんでしょうか。
 よく見てもいませんでしたが、頼朝が以仁王が討たれたのに、ことさら生きていることにして挙兵するのも説明不足でしょう。それに、いきなり「目代」なんて言葉が出てくるのもどうかな。
 瑣末な研究に没頭して、授業では学生のレベルも関心も考えないで、学術用語を濫用する学者みたいな感じですね。
 以仁王令旨だけで挙兵が成功したかのような描き方も、あまりに単純化しすぎです。
せめて、東国でも平氏方の横暴に多くの武士が怒っていたといった説明がほしいところですね。
 いきなり梶原景時が、平家の満月にかげりが出たと言って頼朝を助けるのも唐突過ぎます。土肥実平が舟を手配することを、どうして景時が頼朝に伝えるのでしょうね。まあ、折角有名人が演じているのと、あとのからみで出番を多くしたのでしょうが。

 福原遷都後の飢饉は何のことでしょう?養和の飢饉は翌年ですがね。たしかに福原遷都後に日照りは起こりますが、直ちに飢饉になるわけではありません。
 そういえば、『その時歴史が動いた』でも、還都の原因は飢饉であり、帰京後に頼朝の挙兵が起こったという、信じがたい再現ビデオとナレーションが流れておりました。それよりはマシですが、飢饉重視に変わりはありません。
 NHKの歴史番組のネタはどこにあるのでしょうか。せめて、年表くらい見ろ!
 

怪奇!妖怪丹後局!

No.3612

 繰り返しかもしれないが、夏木マリの丹後局、どんどん怪奇になってきている。後白河法皇が丹後局に膝枕をしてもらっているシーンがありましたが、どう見てもこの
法皇サマ、魔性のモノに憑かれて正気を失っているようにしか見えません。大河ドラマはいつからホラー映画になったんでしょうか? この丹後局ならば、正体が九尾の狐か“ろくろ首”だったとしても全然驚きませんね。

養和の飢饉

佐伯真一
No.3618

 あわただしかったですよね、先日の義経。
 早く義経の活躍場面に入りたいから、この辺はもうすっ飛ばす、という感じがはっきり出ていました。橋合戦なんかセットを作って撮影したら大変だというのはわかりますし、史実かどうかは怪しいからいいのですが、頼政の最期は、元木先生がおっしゃるとおり、あんまりだと思いました。頼朝の挙兵も、先日は慎重だった頼朝が、何で突然その気になるのか、わかりませんでした。理屈はどうでもいいや、というところでしょうか。
 ところで、養和の飢饉は、治承四年にはもう始まっていたのではないでしょうか。延慶本『平家物語』(第三本=巻六―廿五)では、治承四年に飢饉が始まって餓死者が多く、翌年は立ち直るかと思ったら、疫病まではやって飢死・病死数を知らず…と描いています。治承四年の干魃は、やはりその年の収穫に影響を与えたのではないでしょうか。飢饉が福原遷都の原因だというのは、明らかに無理だと思いますが。