瀬田勝哉「伏見即成院の中世」。

No.3470

 『武蔵大学人文学会雑誌』第36巻第3号(2005年1月)に掲載されている論文です。京都文化博物館在職時の同僚である大塚活美先生から教えていただいて読んでみたのですが、とても面白く興味津々です。
 元木先生の「伏見中納言師仲と平治の乱」で注目された師仲の「伏見の別荘」とも関係しますし、鎌倉後期に持明院統の「伏見御所」がここに存在していたことで、山田先生が追究しておられる大覚寺統の「院政王権都市・嵯峨」とも比較の対象に出来そうです。
 宇治とは巨椋池を隔てて対岸の関係にあり、この地は宇治の評価を考える場合、木幡とともに避けて通ることは出来ません。
 これまで、伏見といえば、秀吉の伏見城か『看聞日記』の伏見宮貞成親王の時代のみが関心の対象とされていましたが、この論文のお蔭で中世前期の伏見に目を向ける必要を痛切に感じました。
 元木先生、美川先生、山田先生。宇治とともに、伏見も課題として取り組みませんか。
 この論文を書いてくださった瀬田先生はもとより、その存在を教えてくださった大塚先生にあつく御礼を申し上げる次第です。
 
 ちなみに、即成院の現在地は京都女子大から徒歩15分ほどの所ですので、近くゼミで見学会(散歩)を致します(日程は後日、指示)。ゼミメンバーはこの論文を必読のこと。那須与一とのかかわりで、国文専攻者にも大いに勉強になるはずです。

Re: 瀬田勝哉「伏見即成院の中世」。

美川圭
No.3471

>野口先生
『紫苑』第3号お送りくださり、ありがとうございます。
実際に送りくださったのは、山岡さんかな。山岡さん、ありがとう。

伏見については、盲点でした。
伏見といえば秀吉、なんて私も勝手に考えていました。
また、持明院統の拠点は一条以北の室町殿前身だと思っていたので、
『日本史研究』476の「おわりに」でちらっと、書いたのですが、
伏見を考えねばならないとは。
「権門都市こそ中世荘園制の根幹」という仮説が、
どこまでいけるか、いろいろ考えたいとおもいます。
とすると、秀吉が、最終的に王家の根幹を、伏見で牛耳った?

瀬田先生の論文は、まだ手に入れていませんが。

Re: 瀬田勝哉「伏見即成院の中世」。

No.3482

>野口先生
 『紫苑』第3号、私も山岡さんから拝受させていただきました。ありがとうございます。ますます内容が充実していきますね。野口先生の巻頭論文、山岡さんの女院論など、興味深く拝見させていただきました。

 瀬田先生の「伏見即成院の中世」が話題になっています。私も抜刷を頂戴いたし、いつもながらの緻密な論証に驚嘆しながら読みました。瀬田先生の凄みは、とにかく現地を徹底的に歩くこと。多くの場合、東京の先生方が京都のことを書くと、失礼ながら土地勘のなさからとんでもないピントはずれが登場しがちなのですが、瀬田先生は違います。私も京都のことならば決して無知ではないと思うのですが、それでも瀬田先生の「京都通」ぶりには脱帽することがしばしばです。

 瀬田先生は、かなり以前から伏見の問題にとりくんでおられました。ゼミで伏見宮貞成親王(後の後崇光院太上天皇)『看聞日記』を読んでいるんだ、と楽しそうに話されていました。ちょうど私も秀吉の伏見城下町の研究にとりくんでいる時、ゼミの学生とともに来られた先生と一緒に伏見を歩いたことがあります。
御香宮社に御案内し、宮司の三木<そうぎ>さんにお引き合わせた時、先生のお顔がパッと輝いたことが忘れられません。三木氏というのは中世以来の伏見の豪族で、その御子孫が今も御香宮の宮司をおつとめになっているのです。「凄いな、凄いな。中世が今も生きているんだ」と、小躍りして喜んでおられたのが印象的でした。
その後、伏見桃山城キャッスルランドの復興模擬天守閣(今はもう上がれない)に昇り、南は巨椋池跡、眼下には伏見殿の故地、北側にははるかに都の市街地を一緒に遠望しました。天守閣に展示してあった伏見の古地図を嘗めるように丁寧に眺めておられたことも思い出します。
 その時の成果が、瀬田勝哉「『伏見古図』の呪縛」(『武蔵大学人文学会雑誌』第31巻第3号掲載、2000年)です。これも凄い論文です。これまで無批判に中世のものと信じられて使われていた「伏見古図」を徹底的に分析し、それが近世に捏造された偽作であることを完膚無きまでに論証したものです。ご興味のある方は、ぜひご一読ください。

 瀬田先生とは、もう一回、伏見を歩いたことがあります。めぐりあわせの良いことに、京都市埋蔵文化財研究所が伏見で発掘調査をしており、それにご案内したのです。これも、先生がかねてから注目されていた「伏見一間道」という古道の場所の調査だったので、これも大変喜んでもらえました。

 中世の伏見、私もぜひやってみたいですね。「院政王権都市」にはなりきれなかったと思いますが、京都近郊の重要な中世都市だったことは間違いありません。ただ、秀吉によって完全に土地が改変されてしまっていますから、なかなか難しい課題であることは確かです。それでも、瀬田先生のように丁寧に探索すれば、思いがけないことがわかるかもしれませんね。
 野口・美川・元木各先生、一度伏見を歩いてみませんか? 秀吉以後のものだけでなく、後崇光院陵、橘俊綱の伏見殿跡と推定される指月の丘(怪しいけれども、光明・崇光両天皇陵が治定されている)など、中世をしのばせるものも少しは残っています。

 宣伝です。9月の中世都市研究会京都大会(於花園大学)では、瀬田先生の御報告があります。稀有な機会かと思いますので、ぜひご来会ください。

中世の伏見を歩く。ゼミの行事に決まり!

No.3484

 山田先生、毎日とてもお忙しいようなのに申し訳ありませんが、ぜひとも伏見の御案内をお願いいたします。歩き疲れたら、中書島駅近くの鳥せい本店かキザクラカッパカントリーで一杯、ということであれば、遠方からの元木先生のお出ましも期待できましょう。
 
 山田先生の紹介された瀬田勝哉「『伏見古図』の呪縛」は、ここで読むことが出来ます。

http://e-lib.lib.musashi.ac.jp/Elib/H31-3/007/001.html

 ちなみに、瀬田先生の「伏見即成院の中世-歴史と縁起-」の「付記」に、このような一節があり、武蔵大学日本文化学科の矜持の高さに感動しました。いわく、
 「学生の卒論作成に学科の生命を賭けようという共通の意志」
小生も、大学はかくあるべきだと思います。武蔵大学は学芸員課程の充実ぶりでも有名ですが、その辺りの事情については以下をご覧になると一目瞭然だと思います。

  http://www.musashi.jp/persons/gakugei/crtpub/kateirp/repo99/html/nod0-0.htm