関東から戻りました。

No.3127

 昨日は調査のために関東に行っておりました。
 品川歴史館に行くために京浜東北線の大森駅を下車すると、まさにホームの降り立ったところに「日本考古学発祥の地」の記念碑がありました。そう、大森駅の近くの線路沿い一帯の地こそ、あの大森貝塚だったのです。そこで、遺跡庭園もしっかり見学して参りました。山田先生は行かれたことがありますよね?
 駅を出て北に向かって歩いていく途中のあるホテルに、この日に行われる結婚披露宴の案内が掲示されており、そこには最近、日本中世史のジャンルで優れた論文を発表されている若い男女の研究者の名と同じ新郎新婦の名がありました。ただの偶然の同名異人か、はたまた・・・。いずれにしても、お目出度うございます。
 かかる偶然も含めて、品川の調査は収穫多大でした。鎌倉幕府御家人の紀姓品川氏については、来年発表の紀要論文か、あるいはNHKブックスで触れなければならないと思っております。

 >ゼミメンバー諸姉兄  元木先生から、「おとなしい」との御指摘がありましたが、たしかに研究会などで若者が謙虚すぎるのは実によくありません。心してください。

 >中村武生先生  牛若丸誕生井のようなものを問題にするのは、方法論的に歴史学よりも先ず伝承成立論(国文学のジャンルでしょう)の観点から検討されるのが順当と考えます。

Re: ご指摘ありがとうございます

No.3130

野口実先生 
 中村武生です。

 ご指摘ありがとうございます。

 私はこれまで「史蹟空間」がどのように成立するのか、近代史における歴史意識の形成、地理学における「場」の論理の成立、という視点で、主に「建碑」の意味を考えてまいりました。三宅安兵衛遺志碑、京都市教育会碑などの考察はそれにあたります。

 このたび牛若丸誕生井を始めとする義経伝承「地」を同じ視点で捉えようと考えておりました。しかしながらそれを進める前に、まず「事実」として、紫竹に義朝邸や常盤邸な
るものが成立しえるのかを知っておきたいと思いました。

 もちろんきっかけは、保立さん『義経の登場』の安易な紫竹の牛若丸伝承地の事実認定を読んだからです(近世地誌や僧侶からの聞き取りの遡及)。 
 はずかしながら私は中世前期の勉強をしておりませんので、それを学ばせて頂きたく、先の書評会に参加させて頂いた次第です。

 おかげさまで「ありえない」ということを教えていただき、大変感謝いたしております。

 私の立場で論ずるに、歴史学より国文学における伝承成立論の視点が「順当」かどうかは分からないのですが、これはぜひ今後意識して学んでみたく存じます。

 ご指摘、心より感謝申上げます。今後ともどうかよろしくお願いいたします。

大森貝塚

No.3133

>野口先生
大森駅、行かれましたか。あそこは私たち考古学徒にとっての聖地です。私は今まで何度、ホームに立っている「日本考古学発祥の地」記念碑(ご丁寧にブロンズ製の縄文式土器がのっかっている)を拝して涙したことでございましょうか(ウソ)。ただ、E・S・モースの発掘した大森貝塚の位置はずっと2説が対立し、その記念碑が2ヶ所に建っています。ひとつは「大森貝墟」碑で、線路沿いのNTTビルの隙間にあります。もうひとつは「大森貝塚」碑で、このあたりは品川区によって遺跡公園として整備されています。発掘調査の結果では、後者がモース発掘地に近い、ということになっております。野口先生の行かれたのはどっちですかね? なお、品川歴史館は小さいですけれども、なかなかお勧めポイントですね。

中世の品川

No.3136

 山田先生、もちろん両方行きましたよ。こう見えても、小生、かつて古代学協会において「発掘調査部」(だったかな?)の辞令を頂いたこともございます。れっきとした・・・ですから。

 ところで、品川は中世において紀伊などとの間で海運の盛んなところでしたが、源頼朝挙兵当時には、ここに品川氏という紀姓の武士がおりました。ちなみに、品川歴史館の所在地は「品川区大井」ですが、この地名を苗字にした大井氏も品川氏の一族です。
 港津としての品川とともに、この品川氏・大井氏の存在形態について、目下、考えているところです。ちょっと、従来考えられてきた東国武士の範疇に入りきらないような存在のように思えます。