あれから10年

No.3066

 今日で阪神大震災から10年目となりました。震災の話は、いつまでも、そしてできるだけ多くの人々に語り継がなければなりません。なぜなら、いつか、どこかで必ず起こる次の大震災に備える必要があるからです。

 1995年1月17日、午前5時46分、私は兵庫県芦屋市翠ヶ丘町の自宅におりました。地震勃発時には熟睡していたため、事前の地鳴り、最初の縦揺れは覚えておりません。激しい横揺れで目が覚めましたが、立ち上がるのは無理、身を起こしたところに横の本棚の本が飛んできました。まるで、本のシャワーだ、と思ったことを覚えています。次の瞬間、自宅が倒壊してゆくのが分かりました。一階に家族がいるのに・・・

 地震が起こればまず暖房などを消し、頭に何かをかぶって、屋根からの落下物に気をつけて外に出る・・・。そんな事ができるような地震なら、死者が出たり、建物が倒壊したりはしません。本当の大地震では、まず身動きできないと思わないといけません。 
 また、阪神大震災では一瞬で多くの建物が倒壊し、尊い命が失われました。阪神間の大学生・大学院生がその犠牲となっております。関西の住宅は、近代以降地震の経験がなく、逆に台風対策を重視したため、屋根が重く相対的に柱が弱くなっておりました。これが被害を拡大したようです。京都の下宿、古い民家などはかなり危険な建物が多いのではないでしょうか。一刻も早く補強対策を検討してください。
 地震で棚のものが落ちるのは、震度5程度のこと。7になると、地面が10センチ以上左右に揺れるとの事で、ものは「飛んでくる」のです。故熱田先生の教え子で、神戸大の応援団員だった屈強な男子学生が、建物は無事だったのに飛んできたオーディオ製品の角で首に大怪我をしてなくなったという悲惨な例もあったそうです。置物などにも、十分気をつける必要があります。
 
 我が家は、一瞬で倒壊しましたが、奇跡的に両親は隙間にはまり、妹は自力で脱出して無事でした。両親は壊れた家に閉じ込められたのですが、幸い出勤前の時間でもあり、となりのマンションが無事だったことから、そこの居住者の工務店関係の男性が、短時間で救出してくれました。二重三重の幸運としか言いようがありワせん。怪我はしましたが、おかげで両親は助かりました。これがもっと遅い時間で、家に老人、女性、子供ばかりだったら・・・。想像を絶します。
 人々の協力は各地で見られました。しかし、辛うじて助かったものの、物資はなく、被災地に残って生きていられるのか、という恐怖が人を捕らえると、今度はわずかな物資をめぐる争いも起こりました。幸いなことに、近隣の大阪が無事で、すぐに救援物資が大量にもたらされたので、ひどいパニックが発生したり、騒動などには至らなかったようですが、かなり緊迫した状況もありました。
 当時、勤務していた西宮市夙川の大手前女子大学でも、避難してきた人々の間でもめごとが起こったり、大学側の対応が悪いとくってかかってくる人もおりました。しかし、この地域の地区長の婦人は大変しっかりした方で、見事に人々をまとめ、混乱を回避しておられました。もちろん、公的な支援が第一ではありますが、それが届くまでは、地域の協力、日ごろからの連係が第一だと痛感させられたことでした。
 負傷した両親を抱え、大学に避難しておりましたが、食料も十分ではなく、水もガスもない状況で、まず思ったことは生き延びられるのかということでした。被災から5日目、店が開き物が売られるようになりました。ようやく助かったと思えたのは、この時でした。水道が復旧したのは40日後、それまで毎日、近所の夙川で這い蹲ってポリタンクに水を汲んだことでした。
 
 震災直後の混乱の中、美川先生ご夫妻が自転車で救援に駆けつけてくださいました。孤立した被災者にとって、外部とのつながりを確認できたのは何よりもうれしいことでした。遠方の野口先生はじめ、多くの方々から、御激励を賜ったことも勇気付けられました。
 また、倒壊した家の家財道具は、もちろん自分で回収しなければなりません。公的救援など、いつになるか分かったものではありませんでした。何人かの方が交代で救援に見えて、家財道具、特に書籍の搬出を手伝ってくださったことも、本当に有難いことでした。こうしたご支援があってこそ、今のように研究が継続できたことと、心から感謝いたしております。この時に賜ったご恩を、生涯忘れることはございません。
 これから、被災者を救援に行かれる方も多いと思います。できるだけ多くの方々の力になって差し上げてください。ただ、その際に被災者を見下したり、軽んずるようなことのないように留意することが肝要です。「何だ、この程度の被害か」といった言葉、態度は絶対に慎むべきです。無論、もっとひどい被害を見たり聞いたりすれば、そういう思いも生まれるのですが、被害を受けていない人からそのようにいわれる筋合いはありません。また、見下されるくらい理不尽で、腹立たしいことはありません。
 
 震災で、九死に一生を得て、一番思ったこと。死に直面する恐怖の深さ、衝撃の大きさを思い知りました。報道でしか知らなかった災害の本当の姿がやっとわかるようになったのです。それは同時に、「戦争経験」を語り継ぐことの意味を何も理解していなかった自分に気づくことでもありました。
 経験することとしないことの落差。では、経験できない過去を対象とする歴史家は、この落差を認識し、克服できるのか。10年続いた、そして死ぬまで続くであろう自問自答です。

 同じような被害を受け、一瞬の差で生死を分けた現実が、死に直面した恐怖というトラウマをもたらしたことはいうまでもありません。それと同時に、なぜ生き残ったのか、生き残ってよかったのかという、辛く厳しい自問を強いることがあります。死んでいった人々の恐怖や苦痛、家族を失った人々の苦悩や悲しみを思わない時はありません。
 だから、死んでいった人たちのためにも、恥ずかしくない、悔いのない生き方をしなければならないという思いを、私は常に心に片隅に宿しております。

当時、僕は小学校6年生でした。

No.3067

 経験することとしないことの落差。との元木先生のお言葉はいろんな場所で感じる気がします。
 コメントや感想などを書くことは出来そうにないのですが、僕自身の当時の体験を忘れないうちに書いておこうと思います。(京都にいた人間にとっての体験です)
 京都では震度5(今の尺度だと5弱だったと思います)でした。地震発生時は母と妹が朝のジョギングから帰ってきたところで、寝ていた父と僕はたたき起こされました。(激しい横揺れの最中でした)
 震度5弱の地震では家の家具等は倒れることはありませんでした。やはり5と7とでは全く違うのですね。当時はまだ家が建て変わる前の古い家でしたので、本震の後の余震が一番怖かった記憶があります。つけていたテレビ画面のNHK大阪放送局のスタジオが大きく揺れだし、タイムラグのあと自分の家も揺れる。家が倒れるのではないかとヒヤヒヤしながら、床に手をつけて踏ん張っていました。
 
 当時、父は西宮の鳴尾浜に職場があり、当日も会社へ向おうとしました。もちろん全線ストップで京都駅まで車で行って、運休していることを確認して帰ってきました。職場の部下のほとんどが兵庫県下に住んでいるとのことで、当日は1日中電話で安否確認をしていました。
 小学生だった僕は、いつも通り学校へ通学しました。特に周りの友達は被害がなく「すごかったねぇ」という感想を言い合ってた状況でした。そして昼休みに職員室に行き初めてヘリコプターからのテレビ映像を見ました。ホントに「絶句」しました。

 父は、職場までの交通機関が確保できた時から、母が作った大量のおにぎりを持って、毎日職場に向かっていました。
 ある程度、現地の状況が収まった後、阪神電車に乗り、父に連れられて西宮の職場まで行きました。ブルーシートに包まれた家があったり、ビルの周りはビルの基礎を残してすべて液状化している状況でした。

 不適切な表現かもしれませんが「戦争ってこんな状況なのだろうか」とも思いました。
 僕自身は、阪神大震災は間接的な経験でしかありません。しかし、ビルが倒れたり町中が燃えている映像は、写真や白黒の映像ではなく衝撃的なものでした。小学校の職員室でリアルタイムのカラー映像でみた状況は、今でも思い出すことが出来ます。

 地震に関しては、被災地の周辺に住んでいた人間にとっては、ライフラインの確保や情報収集の大事さを学んだのだと思います。
 特に大きな災害の場合、同時多発的にさまざまな問題が発生し、どこで何の援助が必要かという情報や、安否情報なども錯綜していたように思います。
 4月から僕は情報の教員ですが、いざというときに必要な情報を受信したり発信する事ができるような、そういう事もきっちり押さえていきたいと、元木先生の書き込みを見て再確認しました。

あれから10年 当日のこと

No.3068

10年たちましたね。

 あの日のことは、ほとんど被害のなかった京都に住んでいた私も、きのうのように覚えています。私の住んでいた五条河原町では、非常に振幅が大きいがゆったりした揺れで、非常に不気味でした。ぜったいどこかで大地震があったんだという確信があり、すぐに東京の実家に電話で、家族の無事を伝えました。おそらく、少したつと電話が不通になると思ったからです。
 そして、テレビをつけると、各地の震度を出していたのですが、神戸あたりの「震度がない」。これは怖かったです。京都は震度5。私の経験した最大のものですが、そんなにひどかったかな、というのが印象。実際に、うちでは本の1冊も落ちていなかった。とにかく直後のテレビを見ていてもよくわからないので、とにかく職場に行くことにしました。当時の職場は、今と同じ、寝屋川市の摂南大学です。京都と大阪の間のかなり大阪寄りです。通勤に使っている京阪電車は、動いていたのです。ただし、すべて普通。しかもやたらに混雑していました。
 いつものように、香里園という駅から歩くと、いつもはほとんど車のいない裏道まで、車で溢れかえり、道という道が車で完全に詰まりきっていました。そして大学に着くと、ある先生が、息子の住んでいる神戸のマンションの向の建物が崩壊した、という話をしていました。そのとき、はじめて、とてつもないことがおこった、と感じたのです。

Re: あれから10年

No.3069

あの頃は元木先生とはまだ面識もありませんでした。お名前を存じ上げていただけ。震災当日のあの時刻、私は朝食を摂りながら、テレビで地震報道を見ていました。当時は刀剣保存協会に勤めていたので。その時の報道では、関西方面で大きな地震がありましたが、被害は小さい模様です。と言っていました。

 そのため、あまり気にも留めず、職場に着いてからも、午前中は地震のことは忘れていました。それが昼休みになって、大震災であることが分かったのです。情報の伝達なんて、こちらが意識しないとそんなものなのかと思いました。

 それからは、関西の友人・知人に電話を掛けまくりましたが、一向に通じませんでした。それから何日後に神戸の知人にやっと通じました。しかもその人にとって私の電話が一番最初の電話だったようで、物凄く喜ばれたのを覚えています。

 神戸の震災は他人事ではありません。じつは近藤家は神戸の出身で、親戚といっても、祖父の従兄弟とかその程度ですが、被災しています。

 震災十年後の今年、義経関係で神戸市の仕事を頼まれています。また、『源義経』の執筆で正月は神戸市の地図とにらめっこでした。パワーの全日本も去年・今年と神戸です。何か因縁を感じます。

Re: あれから10年 2日後

No.3070

元木先生の避難先にうかがった日。

たしか、阪急電車が西宮北口まで動き出した震災2日後、つまり1月19日だったと思います。我が家には、1歳11ヶ月の娘がいたので、彼女を隣家にあずけて、とにかく西宮界隈まで、夫婦で行くことにしました。

元木先生のご家族が、被害に遭われるも一応ご無事で、大学の寮に避難されているということは、震災当日の夜あたりか、翌日に間接的に耳にしておりました。寮の電話も聞いていたのですが、とにかく、域外からはほとんど電話が通じません。で、とにかく阪急の西宮北口まで行こうということになったのです。というのも、西宮北口近くに友人が数人住んでいて、そのうちの一人の家(マンション)の被害がほとんどなく、数人の家族がそこに避難していたのです。そこをベースキャンプにして、元木先生の避難先をめざそう、ということになったのです。

何をもっていけばいいのか、まったく見当もつかないので、ともかく四条河原町のドンクで日持ちのしそうなパンを仕入れて、阪急に乗りました。大阪の十三で、神戸線に乗換てもしばらくは窓外の風景はなにも変化なし。ところが、尼崎近くだったかな、その辺から突然、青シートのオンパレードになっていくのです。

西宮北口の友人宅は、じつに不思議なことに食べ物であふれていました。
今や大阪の有名店になってしまったポンテベッキオというイタリア料理店の山根大助というシエフが知り合いだったので、巨大なローストビーフなどが届けられていたりさえしていたのです。たしか「大ちゃん」とよばれていた山根シエフも、その場に来ていた気がします。つまり、交通のつながった西宮北口に、援助物資が過剰に滞留。その喜劇的に極端な例が、その家だったわけです。そこで、京都に帰っていれば、なんだたいしたことないじゃない、ということになっていたわけです。友人いわく、もう食べ物はいらない。

そこから、元木先生の避難先に電話をすると、予想通りつながり、たしか先生の母上が電話口に出られた(かけたのは家内)。元木先生は、まさに水を川まで汲みに行っておられたか、職場に行っておられたかで、お留守でした。ともかく、徒歩でもなんでも、夙川ちゥくの元木先生のところへ行くことにしました。自転車を友人の隣家の方が貸してくださったので、けっきょく自転車で行くことになりました。

そこから、国道を通っていったのですが、その光景は、まったくわが目を疑うものでした。車道は車だらけで、まったく動かず。歩道は、大阪方面に、まさに避難民といった人たちが、一様に肩を落として、数珠つながり。ここが日本とは。そこらじゅうで家が全壊し、ビルは傾き、もうむちゃくちゃ。しかもどんどん、被害はひどくなっていく。途中で、家内が全壊した家から、声が聞こえるというのです。まさか。しかし、あとで、ぞっとしました。そして、そこらじゅうに、だれだれ亡くなりました、だれだれ無事です、という立て札。そして、涙が出たのは、やはりおもちゃなどが供えてある光景です。なにがあったか、一目でわかりますよね。

元木先生にお会いした瞬間。私は思わず「よかったですね」と禁句を口走ってしまいました。元木先生のお顔がほんの一瞬歪んだのを、よく覚えています。あんな目に遭われて、「よかった」はずがありませよね。でも、私の言いたかったのは、つまり、生きていてほんとうによかったですね、という意味だったのです。そのことをすぐに理解された元木先生の表情がすぐにやわらかになりました。

ほんとうに失礼だったのですが、あの状況のなかで生きていた、というのは奇跡的。と思えたのです。しかもけがをされているとはいえ、ご家族4人がご健在であったのは、まったく奇跡だったのです。命さえあればなんとかなる。

そんな異様な日が、あの震災2日後でありました。

怖い夢

No.3083

 美川先生、書き込み有難うございました。リアルな書き込みで、あの日のことをありありと思い出しました。
 先生、そして奥様には感謝の言葉もありません。本当に有難うございました。あの時のこと、これからの防災対策、各地の地震のことなど、当時を思い起こしながら家族と色々話し合ったことでした。
 震災は、いつ、どこで起こるか、全くわかりません。あの時、無残な最期を遂げた、前途有為な方々のことを思うと、本当にいたたまれない気持ちです。地震は防ぐことができません。しかし、震災は軽減することができるはずです。どうか地震には、十分な備えをお願いいたします。
 震災の恐怖は骨身にしみました。しばらく、何回も地震の夢を見て、夜中に飛び起きました。今のNHKの朝ドラでは、地震に立ち向かう姉と、恐怖に戦く弟が描き分けられておりましたが(今はストーリーが大分展開しましたが)、あれは被災者の偽らざる両面だと思います。
 震災の前は、大学院に入ったつもりが、実は試験はこれからだったという夢を見ました。今の職場に移った後は、移ったつもりが実は非常勤だったという夢を見ました。
 悪夢といえば、「金縛り」の御経験はおありですか。半ば意識がある状態で、幻覚、幻聴に見舞われ、体が動かないように思える現象です。大体高校くらいの若いころに経験するもので、これを幽霊と思う方も多いようですが、実は体のバランスの悪い時に起こる、一種の自己催眠だそうです。
 高校のとき、外で子供の甲高い声が聞こえたと思った瞬間、毛むくじゃらの手がわきの下から現れ、首を絞められた(ように思えた)ことが有り、何度か同様の経験をしました。数年前、泊まったホテルで本当に久しぶりに金縛りにあいました。この時、金縛り状態で、ベッドの端に黒い服、長い黒髪の女が座っているのを目撃した(ように思えた)事がありました。実は、黒い台と黒いテレビがあったのですが。よほど体調が悪かったのでしょう。
 昨年、父を失い、葬儀等々で心身ともに追い詰められて、久しぶりにまた金縛りに会いました。今度は足の上に黒い塊が乗っているではありませんか。両手で私を引きずってゆくのです。よく見ると、パンチパーマに、黒いひげ。「元木君、こっちに来なさい」「た、た、た、棚橋さん、待ってくれー」と叫ぼうとしてもがくうちに目覚めました。
 目覚めて思うに、本当に当方をお呼びだったのは、飲み仲間兼助手役をお探しのA先生ではなかったかとかと・・・。親不孝な私は父が呼んでいるなんて、思いもしませんでした。いや、あるいはK君かも。いやいや、K君は当方などにお構いなく、藤原忠実の聞き取りに一生懸命になっていることでしょう。
 あちらに行っても、親しい人も増えたし、それに清盛や頼朝もいるわけだし、あちらに行くのも悪くはないかもしれません。
 でも、ある大先生いわく「あっちに行ったら偉い先生が一杯おいって、わしらは小僧扱いやないか。こっちにいたら威張れるが、向こうじゃそうは行かない。そんならしばらく行くのはやめとこ」。仰るとおりです。