足利尊氏建立の後醍醐天皇の霊廟遺構

No.2765

 京都市右京区嵯峨の天龍寺旧境内で足利尊氏が建立した後醍醐天皇の霊廟「霊庇廟」と見られる遺構が確認されたという報道に接しました。現地説明会は明7日、午前10時より。
 詳細は↓を御覧下さい。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2004110500246&genre=M2&area=K1H

Re: 足利尊氏建立の後醍醐天皇の霊廟遺構

No.2768

野口先生
京都新聞には触れていないようなのですが、朝日新聞の朝刊には、後嵯峨上皇がつくった亀山殿の桟敷殿跡らしき遺構が発見されたともありまして、西山良平先生のコメントが載っています。てっきり前の嵐亭脇と思いこんでいたのですが、違うのですね。明日は推薦入試で行けないので、明後日行く予定です。後醍醐霊廟=亀山殿桟敷殿なんでしょうかね。だいたい桟敷殿というのをよく知りません。明日現地説明会に行かれた方、情報をください。
しかし、京都の発掘は風雲急を告げている感じで、なかなか追いつけません。もう一度、来週宇治にも行く予定です。前の部分の南側が気になるのです。

亀山殿の桟敷殿跡に霊廟造営ですね。

No.2769

 美川先生、御無沙汰しております。今回の遺構は、先生が嵐亭の隣接地の現場に出かけられたときに、先に行かれた現場から検出されたもののようです。
 小生、このところ出不精になり、明後日の史跡見学会のように連れて行ってもらわないと、なかなか出かけなくなりました。今回も時代が関心よりもすこし後なのと遠方なことから、明日は机上の仕事に専念するつもりです。美川先生同様、行かれた方の情報提供を期待いたします。

Re: 足利尊氏建立の後醍醐天皇の霊廟遺構

No.2773

大阪在住の大村と申します。野口・美川両先生、ご無沙汰しております。本日の説明会に行って参りました。
亀山殿桟敷殿は文献からの比定で、鎌倉後期の整地層と若干の遺物が出土したのみです。なお遺物に小ぶりの瓦があることから檜皮葺き建物が存在していたとされます。なお柱穴はありません。
霊庇廟は「山城国臨川寺領大井郷界畔絵図」からの比定で、柵列と柱穴一つが出土したことから、絵図に描かれている柵列と鳥居の一部ではないかと推測されています。
なお記者発表で後醍醐を祀るとしたのは誤りで訂正して欲しいとの説明が当日ありました。
説明会資料は京都市埋蔵文化財研究所で公開されると思います。

Re: 足利尊氏建立の後醍醐天皇の霊廟遺構

美川圭
No.2775

大村先生、ご無沙汰しております。玉稿の亀山殿について、参考にさせていただいており、ありがとうございます。
今回も情報をありがとうございます。
ということは、後醍醐を祀っているかどうかは、不明ということですね。とにかく、明日行ってみます。

都市的空間としての中世嵯峨の評価。

No.2776

 大村先生、書き込みをしてくださり、ありがとうございました。現説に行く人がいたので、先生の御高論「中世嵯峨の都市的発展と大堰川交通」(『都市文化研究』3号、2004年)を事前学習用に紹介したところでした。
 現説で後醍醐を祀るとしたのは誤りで訂正をされたというのは、なにか意味深ですね。「祀る」ということの評価(意味)の問題でしょうか?この辺りについて、もうすこし知りたいと思いました。
 なお、本日の現説に行く人に参考資料として渡したのは、上記の大村先生の御高論と、もう一つは、山田邦和先生が本年度の前近代日本都市論研究会で報告された「中世都市嵯峨の展開」のレジュメです。「巨大都市複合体」としての中世京都を構成する最重要の衛星都市として嵯峨(天龍寺門前、上嵯峨・下嵯峨)を評価されたものです(これは復元地図がスゴイ)。
 交通機能に着目された大村先生の御研究と、嵯峨を後嵯峨・亀山皇統の院政王権都市として評価された山田先生の御研究は、中世都市(都市的空間)嵯峨に対する今後の研究のベースをなす車の両輪になるものと思います。
 >永富さん  大村先生の御高論は角倉了以の保津川開削の話で締めくくられています。

 >みなさま  当ゼミ機関誌『紫苑』第1号(2003年)には、永富絵里子「角倉了以について」が掲載されています。

 >大村先生  これからも、どうぞ宜しくお願い申しあげます。京女へも、ぜひお出かけ下さい。

 >美川先生  明日の調査レポート期待いたしております。

亀山殿と中世都市嵯峨

No.2778

野口、大村、美川各先生、こんばんは。
今日は日本考古学協会の大会で広島に行って呑んだくれていたので、天龍寺・亀山殿の現説に行けず、残念。

>大村先生  埋文研が「霊庇廟が後醍醐を祀る」と言っていたのを撤回したのですか。やっぱりね~。おかしいと思っていたよ~。霊庇廟は天龍寺の鎮守八幡宮ですから

>美川先生  亀山殿の桟敷殿は、『増鏡』に「河に臨みてさじき殿造らる」、『五代帝王物語』に「大井河嵐の山に向て桟敷を造て」とあるものです。後嵯峨法皇は嵐山に吉野の桜をいっぱい移植してきたということですので、桟敷殿から大堰川を隔てて嵐山の桜を見るのは、それは綺麗だったでしょうね。

>野口先生  中世都市嵯峨の研究は、いくつかに分けて公表するつもりです。第一弾は、「院政王権都市嵯峨の成立と展開」(吉井敏幸・百瀬正恒編『中世の都市と寺院』所収予定、東京、高志書院、2005年3月刊行予定)で、ここでは亀山殿時代の都市嵯峨の復元とその意義を論じました。室町期の嵯峨については稿を改めるつもりです。乞ご期待?

Re: 足利尊氏建立の後醍醐天皇の霊廟遺構

No.2781

山田先生、おはようございます。
さっそく的確なコメントをありがとうございます。
「桟敷殿」と「霊庇廟」についての根拠となる史料を調べようと思っていたところなので、こう書いていただいて、ほんとうに助かりました。おかげで、後醍醐云々、などの問題の疑問も氷解しました。山田先生の玉稿を首を長くして待ちたいと思います。これで、私も鎌倉後期の仕事にも復帰できそうです。
これから、現地に行ってきます。

Re: 足利尊氏建立の後醍醐天皇の霊廟遺構

No.2783

野口先生
過分な紹介をしていただいてありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。

山田先生
当方の説明不足を補っていただきありがとうございます。霊庇廟について先生のような意見があり、撤回されたようです。

Re: 足利尊氏建立の霊庇廟遺構

No.2784

今朝、現地へ行ってきました。
詳しくは、京都市埋文のHPを御覧ください。
http://www.kyoto-arc.or.jp/

印象では、霊庇廟の遺跡であることは、ほぼ確実です。
ただ、亀山殿の遺構ではあると思いますが、桟敷殿であるかどうかは、わかりません。大堰川を隔てて嵐山の桜がきれいなのは、あの場所に限定できないですから。何か、桟敷殿である根拠があるのであれば、ご教示をお願いいたします。私には、今のところ、よくわかっていません。