美川先生の「崇徳院」拝読

No.2683

美川圭先生の御労作「崇徳院生誕問題の歴史的背景」(『古代文化』第56巻第10号掲載、京都、2004年)を拝読しました。 私はまだ角田文衞先生の御説にこだわっているのですが、美川先生の巧妙な論理展開に感服! 崇徳院の実父は誰かというのは不明としたまま、その噂を流すことによって実利を得たものは誰か、というのは、まさに興味津々の謎解きです。

>野口先生  宇治「西殿」のリポート、その通りです。ただ、「小河大路」の幅が4mか8mかは、なかなかむつかしい。個人的には8mの方が確かにしっくりくるのですが・・・

>美川先生 宇治市の担当者、浜中邦弘さんです(同志社の考古学の卒業生ですので、いわゆる私の「後輩」です)。真面目で誠実かつ感じの良い研究者です。

>皆さんへ  滋賀県守山市の佐川美術館でやっている「中尊寺展」、なかなか凄かった。お勧めです。

Re: 美川先生の「崇徳院」拝読

No.2684

 山田先生、拙文お読みいただき、お褒めのお言葉、光栄の至りです。とにかく、角田先生直々のお電話で、撤退不可能、といった具合ですので、もうあれしか書きようがない、という論文です。前半の荻野説問題はけっこう自信があるのですが、野口先生もとりあげてくださった、後半はあまり自信がありません。

 ただ、崇徳天皇が自分の息子でないことが早々に明らかになっていたら、白河法皇が死んでまもなく、かれを譲位させないと、鳥羽院政は維持できない。それなのに、1129年から56年まで、27年間も鳥羽院政はいちおう盤石だったわけですから。鳥羽院政期というのは史料が少ないので、存在感薄のですが、長いんですよ。崇徳を近衛に譲位させたのは、1141年ですからね。しかも、近衛の即位後も、崇徳の皇子が有力な天皇候補としてのこっていたなんて。

 まあ、待賢門院の発言力がとても強かった、なんて解釈も可能かもしれません。それはそれで、女院論としておもしろいかもしれません。また、当時の宮廷内の情報は、いかにして流布されるか、あるいは隠蔽されるか、なんていう問題もおもしろそうです。いろいろと、攻めようがあるので、ぜひ若い方々にも、美川批判など、やっていただきたいです。いつでも受けて立ちますよ(笑)。

 宇治の担当者についての情報、ありがとうございました。

Re: 美川先生の「崇徳院」拝読

No.2686

美川先生、問題になっているご論文、是非読んでみたいのですが……。

Re: 美川先生の「崇徳院」拝読

No.2689

石浜様
ご無沙汰しております。いつも、NHKブックスお送りいただき、恐縮しております。早急に、拙稿の抜き刷りとお送りさせていただきます。まだ、どなたにも、お送りしておりません。まったくなんとか無精なので・・・・。いろいろな方のところへ、ぽつりぽつりと届くかも知れません。あーだめだなあ。