鎌倉幕府の本拠は六波羅にあったか?

No.2399

 目下、法住寺殿と六波羅に忙殺されているのですが、鎌倉時代の六波羅の評価について最近の論文にとても面白いものがあるのに気づきました。熊谷隆之氏の「六波羅探題考」(『史学雑誌』113-7,2004)です。六波羅には鎌倉幕府将軍の本邸(六波羅御所)があり、それゆえに、ある一面においてという限定付きながら、鎌倉幕府の本拠は六波羅にあったというのです。まさに権門体制論。
 この論文の眼目は「探題」や「守護」の概念に対する再検討にもあるのですが、なにしろ熊谷氏は六波羅探題についてこれまで緻密な研究を積み重ねてこられた方で、そうした成果に基づいて提出されたこの仮説には、ある種のつよい説得力を感じざるを得ません。
 鎌倉幕府の本拠が六波羅にあったというのは、関東の研究者には面白からざる事でしょうね。そんな論文が『史学雑誌』に「研究ノート」として発表されたのも面白い。
 一方、当ゼミにとっては、「六波羅短大」なんて語呂合わせを言って遊んでいる場合ではないわけで、六波羅直近の地元大学の史学研究組織としての立場から、鎌倉時代の六波羅についてもいよいよ照準を合わせなければならないことになったわけです。
 さ~て、史料講読会を目前に控えてはおりますが、とりあえず長村君と山本君には、この論文を精読してもらって御感想をうかがわなければなりません。
 元木先生・美川先生はどう評価されておいででしょうか?

後嵯峨院の御所「亀山殿」の遺構発見。

No.2405

 上の件についてまだコメントをいただいていないのですが、もう一件注目すべきニュース。
 本日の京都新聞の報道によると後嵯峨上皇造営の「亀山殿」の遺構が京都市埋蔵文化財研究所の天龍寺における発掘調査で出土した由です。
 記事には山田邦和先生のコメントが掲載されています。残念ながら現地説明会は行われない模様です。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=p2004082700244&genre=M2&area=K1H
↑ 文化・芸能をクリックして該当項目を探してください。

Re: 鎌倉幕府の本拠は六波羅にあったか?

No.2407

すいません。まだ読んでおりません。
今度学校行った時にコピーします。

六波羅・法住寺殿・九条末。

No.2409

 今日は4時半起きで早朝の京都の街をドライブしてまいりました。頭の中が12世紀末なので、その地名に従いますと、六波羅の南側から法住寺殿蓮華王院の北を抜け、八条院御所の辺りから戻ってふたたび鴨川を渡り、最勝光院の西に出て九条末から宇治方面に向かい、木幡の浄妙寺をへて寓居に戻るというコースであります(翻訳:京都女子大学文学部前の渋谷通りから女坂に出て、京都国立博物館の前を京都駅に向かい、そこから西に戻って鴨川の塩小路橋を渡り、龍谷大学の前の道を南下して六地蔵を経、木幡小学校の脇を通って、京阪東御蔵山団地へ)。
 目下執筆中の論文(山田邦和先生に地図のご協力をいただくなどしながら、ようやく完成に近づきつつあり)に、資するところ、少しばかりあったようです。ちなみに、このエリアにはゼミ生がかなりお住まいですね。
 さて、長村君、熊谷氏(研究科は異なりますが、長村君の院の先輩にあたるのではありませんか?)の論文、そんなに急がなくても構いませんので、お読みになったらぜひ感想をきかせてください。それにしても、身内をほめるようでいけませんが、貴兄の『紫苑』2号掲載の論文は、『六代勝事記』と『平家物語』の関係性について論じたものながら、法住寺殿合戦に関する史実の解明という点でも実にすぐれたものだと、いまさら感じ入っています(脱帽)。その後、論文の執筆は進んでいますか?
 
 >末松さん 御教示ありがとうございました。日蓮宗は、合理的というか商売上手というか。しかるがゆえに経済活動を事とする京都の町衆にうけいれられた訳ですね。
 日親さんは教条(理想)主義的で妥協はしない。宗門内部でもエライ人をだいぶ手こずらせています(誰かに似ている)。

Re: 鎌倉幕府の本拠は六波羅にあったか?

No.2411

野口先生
満足いくレポートを書くのはとても難しいことだと、身にしみて感じる学期末の今日この頃であります・・・
そういえば、昨年の8月25日に学習院の皆様の前で発表させてもらってから、もう一年経つんですね。

熊谷さんとはソフトボールのチームでご一緒したこともありますよ。
・・といっても、たった一度、文学研究科日本史研究室の前期打ち上げの日にまぜてもらっただけですが。

亀山殿跡を見学してきました

No.2414

さきほど、発掘担当者のご厚意で、亀山殿の跡を見学してきました。
場所は、嵐山の渡月橋から、桂川(大堰川)左岸をやや遡ったところ。嵐亭という料理屋の北側です。
川を左に見て、歩いていくと、正面が嵐亭です。
手前にもう一つ発掘現場があるので、間違えない様に。
というのも、私、間違えて、親切にも案内していただいたわけです。
ちなみに、このあたり川は東西に流れ、渡月橋は南北に架かる。

さて、現場のなかですが。
北側に一カ所、掘っ立て柱の建物の柱穴が出てきています。
それから、南東の方向に、土地が下がっていき、庭園の遺構があります。つまり、庭石がかなり、発見されています。
ただし、池は見つかっていないようです。
全体に、平安京の道路のような礫で舗装というか、突き固められているようです。

それから、もっとも興味深いのが、遺構の真ん中、ほぼ南北に大きな堀が発見されています。どうも亀山殿がつくられたころ、一気に埋められたようで、それほど時代をさかのぼるものではないそうです。軍事用か?。ともかく、深さ3m近くあります。

あとは、謎として、9世紀の遺物が多く出土しているのですが、13世紀のものは、ほとんど今のところ出ていないようです。不思議ですね。

まだ、よくわからないところが、多いのですが、幸いにして、埋め戻され、保存される予定とのこと。
上には、任天堂がお金を出す小倉百人一首伝承館とかいうのが再来年正月に建つそうです。

もう少しゆっくりと見学したかったのですが、
今日の昼過ぎ、ものすごく暑かったので、ふらふらしてしまいました。

明日から、中国の黄土高原に、1週間ほど木を植えに行ってきます。

天龍寺門前の都市。

No.2416

 美川先生、ありがとうございました。無粋な小生には、庭園よりも南北を走る堀というのが気になりました。たしか、嵯峨あるいは天龍寺門前の都市的空間については、山田先生が、最近、奈良大学で研究成果を発表されたのだと思いますが、いろいろうかがってみたいところです。それにしても、これまで見過ごされてきた鎌倉時代の京都がいろいろな角度から明らかになりつつあるようで楽しみなことです。
 美川先生は、これから中国に御旅行の由、くれぐれも御健康に御留意下さい。楽しい旅となりますよう祈念いたしております。

 >山田先生 台風直撃だったのではないかと思いますが、加悦町の石造物調査の方はどうでしたか?それから、週末に例の原稿を発送したいので(後日、差し替えということでも構わないと思うのですが)、できますれば地図の方よろしくお願いいたします。

 >プリンセス 博物館実習はいかがですか(でしたか)?
 実習に行くと、学芸員はきわめて専門的な素養が必要な職業であるとともに、かなりオールマイティでないと勤まらないことが分かると思います。プリンセスを含めて、当ゼミの何人かのメンバーには、実に向いている職業でしょう。
 >全国の博物館の人事担当の皆様 お探しの人材はここにいます。

亀山殿と丹後の中世墓地と台風直撃

No.2423

みなさん、こんばんは。
◎亀山殿の本格的発掘調査、嬉しいことです。私は最近、「亀山殿とそれを中核とする“中世都市嵯峨”こそは、白河・鳥羽殿・法住寺殿の正統な後継者としての“院政王権都市”である」という論を唱えています。秋には論文にまとめるつもりですので、乞ご期待(?) ところで、美川先生は中国で植樹とは、よくわかりませんが、とにかくお気をつけて。
◎丹後の中世墓地
昨日今日は、京都府加悦町の福井遺跡という中世墓地の石造物調査に行ってまいりました。鎌倉後期~室町中期頃の中世墓地をそっくりそのまま見ることができるという稀有な遺跡です。でもとにかく、写真をとりまくり、疲れた・・・・
◎ご承知のように、台風が日本海側を直撃しました。心配していたのですが、丹後を通ったのはなんと運のよいことに夜の夜中。今日の明け方にはすっかり雨があがり、調査にはまったく支障がありませんでした。これも日頃のおこない(?) でも、旅館の非常ベルが誤動作し、夜中にけたたましく鳴り響くというアクシデントあり。まあ、人間万事塞翁が馬というやつのようです。
◎>野口先生 週末、陵墓研究会で泊まりがけになりますので、ちょっとまにあわないかも・・・