「軍記・語り物研究会」行ってきました。

No.2307

 拙論が俎上にあげられるというので、覚悟を決めて法政大学に行って来ました。
 到着する前に一大珍事発生。飯田橋に向かう総武線で名古屋学院大学の早川厚一先生と同じ電車の同じ車両に乗り合わせました。実は先々月の当研究所公開講座のさい、京都に向かう新幹線に名古屋から乗車された早川先生が隣を見ると兵藤裕己先生が座っておられたという、実に確率論の問題に取り上げられそうな事件があったのですが、今回も同様。早川先生はなにやら一種の呪的能力をお持ちなのかも知れません。
 それはともかく、例会では源健一郎先生をはじめとする三人の先生方の御報告からおおいに学ばせていただきました。と、同時に、小生は首級をあげられる覚悟からの居直りで、いよいよ傍若無人の発言を繰り返してしまったようです。こうした「後悔」が予想されるので、いつも研究会での発言はひかえることにしているのですが。いよいよ遠慮を忘れた老害をまき散らす年齢に到達したようです。ようするに、耄碌して他者への配慮をできるほどの体力的余裕を失ったということでしょうか。諸先生方ならびに参会の方々のご寛恕を願うところです。
 会が終了すると、懇親会に出席する田中さんに小生への苦言の聞き取りと謝罪代行をお願いして、一目散に会場から逃亡をはかり、現在に至っております。
 それにしても、会にお出での多くの方々が、当ゼミの旅行の行先をご存じなのには驚きました。この掲示板、国文学研究者にも、かなりの「視聴者」がおられるようです。
 ゼミ旅行、つぎの台風が心配ですね。それにしても、メンバーは着々と事前勉強を進めているようで感心感心。
 そこで、手に入りやすい必読文献を一つ。
 井上聡「御家人と荘園公領制」(五味文彦編『日本の時代史8 京・鎌倉の王権』吉川弘文館、2003)
 千葉氏の所領経営について、わかりやすく論じられています。
 それではもの足りないという人には、
 湯浅治久「鎌倉中期における千葉氏の経済構造に関する一考察-「日蓮遺文紙背文書」の借上を中心に-」(『千葉県史研究』11別冊中世特集号)
を勧めます。
 話を軍記・語り物研究会に戻しますが、本当に国文学と歴史学の研究者の交流の必要性をつくづく感じたというのが、本日最大の感想です。良貨が悪貨を駆逐するためにも(意味深です)。
 それにしても、久しぶりの法政大学。白ヘルの某セクトの学生の姿はなく、したがってアジ演説の声もなく、さらに立看もない。ピカピカの立派なボアソナード・タワーが聳え立ち、あのビラだらけだった58年館も綺麗に改装されている。
 いよいよ小生も歴史を語りうる古老になったことを実感させられました。

Re: 「軍記・語り物研究会」行ってきました。

No.2308

 先年の機関誌会館で行われた日本史研究会で、日頃からの願いが叶い元木泰雄先生にお会いできた頃から、妙な呪的能力が私の身についたようです。しかし、それらの一連の出会いでは、一方的な片思いに終始していますが。さて、次はどなたにお会いできるのでしょうか。闘諍録研究が、かほどに盛り上がろうとは思いもしませんでした。これも、当日の源健一郎さんのご尽力によるところが大きいのでしょうが、ひいては、近年の福田豊彦先生や野口実先生等、歴史の側の方々の活発な闘諍録論によるところが大きいと思います。それにしても、昨日の研究会に出て、改めて気付かされることには、1175年に出された福田先生の御論の桎梏から、国文学研究はまだまだ抜け出せていないなあということです。闘諍録の成立に千葉氏嫡流の人々の手が入っていることは確かだと私も思うのですが、でもそれだけではどうしても考えがたい側面があることも確かだと思うのです。しかし、昨日の研究会では、源さんも、徳竹さんも、本当にかなり強引な方法で、千葉嫡流に結び付ける形で論を展開されました。全く否定するつもりはありませんが、そして相応の可能性も感じられましたが、だからこそ逆にそうした桎梏から抜け出した論が、今後の闘諍録研究の進展のためにも是非必要という感を強くしました。ところで、野口先生に御願いなのですが、当日お教え頂いた、必読文献を正確に、この掲示板上で、皆様にお教えいただけないでしょうか。できれば、刊行年月日を含めて。外山・伊藤先生の論文、それに千学集抄の論等、当日お教え頂いたものを是非お教え下さい。私自身不正確なメモしかありませんので。この掲示板を、私自身は、論文収集のツールとしても有効に使わせて頂いてます。

Re: 「軍記・語り物研究会」行ってきました。

磯川いづみ
No.2309

初めて書き込み致します。昨日はありがとうございました。
帰り際にご挨拶しそびれてしまい、すみません。

今回参加しての感想を少し。
研究史の共有は難しいですね。もっとお互いに持ち寄れる場があると良いと思いました。
「草深き東国」、「すべての情報は京都に集約される」という軍記研究者のイメージ(固定観念かも)が根強いことにも驚かされました。
結局は「国文学と歴史学の研究者の交流」不足に起因しているのでしょう。「良貨が悪貨を駆逐するためにも」は私も大いに同感です。
「老害をまき散らす」なんて謙遜されていますが、私には孤軍奮闘という言葉の方がお似合いだったかなと思いました。

この掲示板は本名で投稿となっていますが、旧姓を使用させてください。

『源平闘諍録』研究のための必読文献!

No.2310

 早川先生からの御依頼にお応え致します。
 『源平闘諍録』を研究される方にまず、ぜひよ~く認識しておいていただきたいのは千葉氏に関する研究状況です。
 野口実「千葉氏研究の成果と課題」
に、最近の「地域顕彰史観」への逆行の問題についても、かなり婉曲的ではありますが論及しております。また、鎌倉期までの千葉氏に関する研究文献(1999年まで)として、
 平野明夫編「千葉氏関係文献目録」
があります。以上は、野口実編『千葉氏の研究』(名著出版、2000)に、昨日取り上げられた佐々木紀一氏・津田徹英氏などの論文とともに収録されています。
 
 12~13C前半における千葉氏・上総氏や三浦氏をはじめとする東国武士団については、
 拙著『坂東武士団の成立と発展』(弘生書林、1982)
 同 『中世東国武士団の研究』(高科書店、1994)
所収論文があります。後者には、平家諸本を含めて諸史料から房総半島上陸後の頼朝の動きを検討した
 「源頼朝の房総半島経略過程について」(初出1985)
をおさめています。これに関連して、
 今野慶信「東国武士団と源氏臣従譚」(『駒沢大学史学論集』第26号、1996)
も紹介させていただきましょう。  

 『平家物語』研究の立場から東国武士団について論及された論文は国文学のジャンルで多く出されていますが、そのさい、史実の確定に、当時あるいは当該地域における政治・社会状況をほとんど踏まえずに論じられているケースを、まま見受けます。さらに、歴史学ジャンルの研究成果を使用しているにもかかわらず、あたかもご本人がオリジナルな研究を発表されたかのような形で論文を出されたように判断されるものもあります。こういう論文やおかしな(悪しき意味の)郷土史的発想で書かれた<トンデモ本・論文>が研究史の中にまっとうな研究成果として位置づけられてしまいそうな「現状」は問題だと思います。こうした点も、国文学と歴史学の緊密な交流がのぞまれる所以だと思います。
 
 昨日御紹介した論文について続けたいと思います。
 伊藤邦彦氏「上総権介広常について」(『史潮』新9・10号、1981)
 外山信司氏「「原文書」における森山城」(『千葉城郭研究』第2号、1992)
 外山さん(千葉県立佐倉高校教諭)は、青山学院大学日本文学科の御出身で、千葉県史の編纂にも従事されていた方です。直接御教示を仰げば、『千学集抜粋』などについて、有益な情報を御教示いただけると思います。
 
 また、上総広常と平泉藤原氏の関係については、
 長村祥知氏「法住寺合戦について」(『紫苑』第2号、2004)
の注13をご覧下さい(このHPから読むことが出来ます)。広常については、
 拙稿「『玉藻前』と上総介・三浦介」(伏見稲荷大社『朱』第44号、2001)
もあります。

 『源平闘諍録』の成立については、「結城浜合戦」に見られるような妙見の神威譚は当然千葉氏嫡家関係者の手になるものだと思いますが、これに接合した<平家物語>がどこで成立したかということは別問題でしょう。ただし昨日申し上げましたように、すくなくとも13世紀半ばには、千葉氏の守護所をとりまく空間には、都の文化を正当に享受しうる状況が成立していたこと、千葉氏が列島規模の人と物のネットワークを掌握していたことは、押さえておく必要があるでしょう。
 なお、昨日の研究会で取り上げていただいた拙論の中に、肝心要の『軍記と語り物』38所収の「坂東平氏と『平家物語』」が無かったのが腑に落ちませんでした。

 >磯川さん  励ましのお言葉、ありがとうございました。
 「逃亡者」に御挨拶は無用です。千葉氏の研究状況について、よ~くご存じの歴史学の研究者がおられて心強い限りでした。
 御名前の件は、御論文も旧姓でお出しになられているのですから、一向に問題ありません。 

横から御礼

佐伯真一
No.2311

 野口先生、有り難うございました(と横から御礼を言うのも妙ですが)、早川さんのリクエストのおかげで、参考文献一覧、しっかりコピー&ペーストさせて頂きました。昨日も、「孤軍奮闘」かどうかはともかく、野口先生の精力的なご発言に、一同感じ入りつつビールを飲んでいた次第です。
 交流の必要性は、一つはこうした情報交換です。この点、よく言われるように、「文学の研究者は歴史の論文を読むが、歴史の研究者は文学分野の論文を読まない(もちろん例外は多くあり)」という傾向が強いとは思いますが、闘諍録のように地方史関係が必要になってくると、文学分野の人間には、どうしても野口先生のような方のガイドが必要になります(そうでないと、偶然見つけたものに頼るような事になりがちです)。
 交流のもう一つの必要性は、発想の違いの相互理解ですよね。文学研究の側は、概して作品全体を理解しようとする傾向が強い(作品の一部にのみ注目するのは「つまみ食い」として嫌われる)ので、「千葉の問題だけでは片づかない」という方向に話を持っていこうとする傾向も強くなります(必ずしも「京都」ですべてを論じようとしているわけではないと思います)。「千葉氏嫡流」の議論が「桎梏」に感じられるのは、そういう事情があると思うのですが、闘諍録研究の場合は、そうした文学研究らしい方向からのアプローチが絶えて久しいわけで、そろそろ早川さんあたりに、「桎梏」を打破する役割が期待されていると思うのですが…。

先にお礼を言われてしまいました

No.2312

 野口先生、佐伯さん、ありがとう。それに、佐伯さんには、私の思いを実に丁寧に説明していただいて感謝します。
 千葉氏にのみは、必ずしも収斂しない闘諍録をどのように読み解いたら良いのかというのが、これまでの私の闘諍録論のテーマであり(こうした課題設定は、実は私の初めの師匠であります渥美かをる先生が言われたものであることに今更ながら気付かされます)、そうした私の課題が、軍記物語研究者には必ずしも共有されていないという現実が、当日の研究会でも確認されたわけです。そうした欲求不満が、当日の研究発表会に感じられたことは確かです。
 こういうやりとりを目にして、闘諍録に興味を持っていただける方が増えたならば幸いです。ただ、とっかかりとして講談社版の闘諍録から始めるのは構いませんが、常に真字本にも目を通していただけることを望みます。同様なことは、四部本にも言えるのですが。えらそうなことを言ってすみません。

千葉介のお家再興!

No.2313

 佐伯先生、恐縮に存じます。歴史学の方は、中世前期における有力御家人一族の結合形態、嫡宗権の継承とそのイデオロギー的背景がどこにあるのか、というようなことを課題にしているので、文学研究者とは志向するところが当然異なる。高校生を例えにとると、国語は好きだが社会は嫌いみたいな人がもし国文学研究をやっておられるとすると、なかなか歴史学との交流の成果は生かしにくいのではないかと思っています(無論、逆の場合-国語が苦手だった歴史学者の存在-も想定されますが。実際、一昨日の研究会でも一部で大きな「溝」の存在を実感しました)。
 しかし、佐伯先生をはじめとして、歴史学者顔負けの(高校時代に社会科でも優等生だったであろうと思われる)国文学の研究者と、最近面識を得る機会が多く、両ジャンル間の交流については前途は明るいと思っています。
 ちなみに、中世以前の地域史研究において、旧来の「悪しき郷土史」の影響を脱して科学的な手法を展開しているのは、中世考古学を研究されている方に多いので、その方面の成果にも是非目を向けていただきたいと思います。近年、日本中世史は考古学が研究の進展において車の両輪の一方をになっておりますから。
 
 10月2日に千葉で千葉氏のシンポがあるそうですが、小生の子どものころから、地元ではタイトルのような風潮が「郷土史家」の間に根強く、いわば地域が未だに中世の千葉氏のイデオロギーに呪縛されているようなところがあります(19世紀に至っても、下総千葉介<1590滅亡>の子孫と称する人物が、旧領を視察して回り、千葉氏家臣の子孫がそれを歓待していたことを示す史料があります)。それを指摘すると「郷土愛」に欠けるなどと非難されたり致します。
 どこの地方にも、こういう状況は存在しますが、千葉はこういう発想と行政が一体になっているところが特徴で、それは博物館の展示などにも反映しています。
 こうしたことは、佐伯先生が『戦場の精神史』でお書きになられた日本人の武士認識の問題とも絡んでいるのではないかと思います。シンポに出席される佐伯先生には、その場の雰囲気を踏まえられて、後日、是非このあたりのことをご検討くださるようにお願い申し上げます。

やぶへびだったか

佐伯真一
No.2315

 野口先生、有り難うございました。千葉の話はしまっておいたまま、御礼を申し上げようと思ったのですが、やぶへびでした。
 『吾妻鏡』に出てくるような苗字が、そのまま選挙の候補者だったり、地元の有力者だったりする風土については、かねて存じております。また、全国から「千葉氏の子孫」の方々が集まる不思議な空間について、また、それと絶妙の呼吸でつきあっていらっしゃる歴史学の先生方については、既に一度経験して、多少の事はわかっているつもりですが、もう少し知見を深めて参りたいと存じます。

Re: 「軍記・語り物研究会」行ってきました。

源 健一郎
No.2322

 野口先生、田中裕紀さん、先日はわざわざお足をお運びいただき、ありがとうございました。実は、先日の例会の後、そのまま那智勝浦行きの夜行バスに乗り、妻の実家で温泉三昧の三日間を過ごしておりました。すっかり御礼を申し上げることが遅くなり、大変失礼いたしました。
 特に、野口先生のご発言については本当にありがたい限りで、それなしには、またぞろ文学側の自己満足的な場になってしまったことでしょう。佐伯先生の仰るように、発想や依るべき立場の違いはあるものの、文学・歴史学・仏教学等のボーダレスな交流は今後ますます必要となるはずです。闘諍録を今回取り上げたのも、そうした問題認識によるものでしたので、野口先生からお言葉を引っ張り出せた(!?)ことは、各発表者の発表内容の如何を問わず、当企画にとってはひとつの成功事でありました。
 また、私自身の報告については、蓋然性を積み重ねた上での立論で、お聞き苦しかったことと存じます。面目ありません。無責任なようですが、私自身は、今回の関東天台からのアプローチによって、千葉嫡家、庶家、あるいは板東平氏諸流、のいずれに結びついていってもよい、というつもりでした。で、たまたまつなげていった先には14世紀初頭の千葉嫡家があったということだったのですが、早川先生の仰るように、知らず知らず福田論文の「桎梏」にとらわれていた面もあったかもしれません。もう少し考えてみたいと思います。なお、早川先生の闘諍録論、できればおまとめいただければ、とつくづく思います。今回も多大なご学恩に預かりました。ありがとうございました。
 それから、佐伯先生の千葉氏シンポ、私も楽しみです。またお話が伺えれば、と思います。ただし、今回の私の研究史報告については、できるだけ「和らげて」お使い下さいますように!?
 最後になりましたが、今回の私の報告は野口先生からたくさんの資料を拝借することでなりたったものです。改めて御礼申し上げます。また、早速のお気遣いにも重ねて感謝申し上げます。千葉氏について勉強したおかげで、小城についても大変興味があるのですが、今年はさすがに「邂逅」とはいかないようです。実りのあるゼミ旅行となることを祈念しています。みなさん、お気を付けて。

源先生、お疲れさまでした

No.2328

 源先生、おかえりなさいませ。そして、先日の研究会でのご報告お疲れさまでした。源先生のご発表、私自身まだまだ勉強不足で理解するのに時間のかかることもありましたが(これはいつもそうなのです)、とても興味深くお伺い致しました。『源平闘諍録』については、野口先生から千葉氏の話をお伺いするにつけ、勉強してみたいとはおもっているのですが、当分は3月に研究発表させていただいた建礼門院関連の勉強になりそうです。法政で先生もおっしゃっていましたが、『源平闘諍録』に建礼門院が登場しないのが残念です(笑)
 また、懇親会の後で夜行バスに乗って那智に向かわれることを伺い、そしてお嬢様のかわいらしい写真をお持ちなのを拝見し、深い愛を感じました☆野口ゼミの男性方にも学んでいただかなければ!と思った次第です。

 実は、東京から帰ってくると、すでに話は盛り上がっており、すっかりスレッドに入り損なっていました。
>磯川さん 
 先日は初めてお目にかかり、もう少しお話ししてみたかったと自分の勉強不足を悔やみました。またお会いするときには、もっとお話できるように頑張りたいと思います。また、磯川さんの書き込みによって、これでまた勇気を出して他の研究者の方々も書き込んでくださると信じております。よろしくお願い致します。(本当に、今度の小城旅行は皆さんがご存じだったのです!)

>佐伯先生
 研究会が勉強になったことは勿論ですが、懇親会で先生とお話をして、今後勉強していくのに大きな推進力が付いたような気がしました。これから自分なりの方法で、現在の環境を生かしながらコツコツと頑張っていきたいと思いますので、今後ともよろしくお願い致します。