司馬遼太郎『三浦半島記』を読む。
No.2239
『戦場の精神史』の書評は小生もすべて集めたいと思っていますので、同様によろしくお願いいたします。
ちなみに「ラスト・サムライ」論は未だに盛んで、「やはり西洋人は日本のことを分かっちゃいない(分かるはずがない)」という意見があるかと思えば、日文研の笠谷先生のように「確かな日本理解と洞察力」と評価される研究者もいらっしゃいますし、一方、ニヒルな立場から「日本人だって西洋のことなんか知りはしないんだから、「ラスト・サムライ」をどうのこうのと批判するのは天に唾を吐くようなもんだ」と片づける御仁もおられるようです。
それにしても、この議論が(男性の間で)活発な背景には、やはり自らの生き方と歴史認識の相関があるからだと思います。日本の中世史や文学を研究対象にしたり商売道具にしている男たる者は、自分の生活体験を踏まえて、この点は、ちゃんとケジメを付けておくべきだと思います。小生の場合は、拙著『武家の棟梁の条件』において、かなり直裁に、その点を展開してみたつもりですが。
それはさておき、今日多くの日本人の武士認識にきわめて大きな影響を与えているのが司馬遼太郎氏の作品だと思います。小生も司馬氏の作品は好きですし、その慧眼にも魅力を感じるところが多々あります。
最近、仕事の都合で、その『街道をゆく42 三浦半島記』を読んだのですが、そこに展開されているのは、
① 鎌倉幕府は武士という大いなる農民がつくった政権である。
② 平清盛は武家でありながら太政大臣になり、皇室の外戚となり、律令体制を私物化して地方の武士を抑圧した。
③ 東国武士は土くさく質朴である。
といった戦前来の「健全な地方武士VS退廃した都の貴族(平家)」と、戦後の「古代を克服して中世を切りひらく武士という理解に基づく<領主制論>」の2つの図式にもとづく東国武士像でした。これによって、(江戸)幕末の人物と太平洋戦争中の軍人の生き様にも触れており、かれらの生き様と司馬氏が鎌倉時代の武士たちに見出した「節義」をオーバーラップさせるような形で話がしめくくられるように論が展開しています。
これが書かれたのは1995年ですが、残念なことに当代一流の人気作家・司馬遼太郎には、このころすでにかなり進行していた歴史学界における領主制論克服の動きは認知されていなかったようです。司馬氏がもう10年も長く存命されたなら、高橋昌明氏の『武士の成立 武士像の創出』に出会い、さらに佐伯先生の『戦場の精神史』でだいぶ認識を変えられたと思うのですが、じつに残念なことでした。
翻って今日、「歴史認識」において、期待できる作家は皆無のように思うのですが、いかがでしょうか。
ところで、21世紀の日本の岐路となるであろう選挙の結果は如何。小生、ちゃんと「権利」は行使してきました。
失礼しました
佐伯真一
No.2241
時事通信から、ようやく返事が来ました。地方紙に実際に掲載されるまでには、ある程度時間がかかるそうです。私宛には、掲載より早く、何らかの形で送ってくれるそうですので、それが届き次第、野口先生には私の方からお送りしようと思います(お騒がせした責任上)。慣れないことで要領がわからず、申し訳ありませんでした。
司馬遼太郎の問題、実は拙著も、司馬氏の小説から得た知識を一つ二つ使わせて頂いていて、学恩を受けています。へたな「武士道」論の本を読むより、司馬氏の小説をいくつか読む方が、よほど勉強になると思います。
ただ、史観の問題としては、野口先生のおっしゃる武士観の問題と共に、中国や朝鮮と日本の対比において、前者の儒教文化による停滞を批判するあまり、日本の柔軟さの良い面ばかりを強調しすぎてはいないかという点が気になっています。それが柔軟性として捉えられているうちはまだ良いのですが、いろいろと変化した日本文化を、妙な「一貫性」「固有性」において捉えようとする傾向が、その影響下に出てきているとすれば(司馬氏の責任とも言えないでしょうが)、問題だと思っています。
「戦後歴史学(日本中世史)」の終焉。
No.2243
しばしば指摘されるように、司馬氏の描く「明るい幕末や近代」はたしかに一面的に過ぎます。しかし、近代の多様性も再考の余地ありです。宮本常一の記録した近代など、若い人たちにちゃんと読んでおいてほしいところです。
佐伯先生、書評の件、かえって申し訳ありません。しかし、「京都新聞」など共同通信配信の書評は手に入りやすいのですが、時事通信配信は存じませんので、たいへん助かります。
小生も日頃の怠慢を反省して、新聞に書評を載せてくれるような本の執筆に取り組みたいと念じているのですが、「日暮れて、道遠し」です。
永原慶二氏もお亡くなりになられ、いよいよ「戦後歴史学」も過去のものになりつつあるようです。日本国憲法も教育基本法も消えてゆくのでしょうか。
今から20年ほど前、千葉県高等学校教育研究会歴史部会という長い名前の組織が主催した講演会(於、県立千葉女子高校)で永原先生が日本の中世国家についてお話をされた際、直接、言葉を交わしたことがあります。小生、ちょうど無理して博士論文を出版した直後の頃だったのですが、しかるべき研究者は誰も読んでくれていないのではないかと思っていたところ、永原先生から思いがけなく「立派なご本をお出しになられて」と言われて、お世辞でも心からうれしいと思ったことを想い出しました。心より御冥福を祈りたいと思います。
日本史の教科書
美川圭
No.2245
永原慶二先生の訃報に接し、いろいろ考えさせられました。
私は、『日本中世の社会と国家』というNHK市民大学講座のテキストをもとにした本で、かつて中世「国家論」の勉強をしました。古代から近世までの社会と国家の概説書として、簡潔で、よくできていて、教科書的に使うのに最適だったからです。大学で教える様になっても、しばらくテキストに使った覚えもあります。
こういう、たくさんの先行研究に目配りした、教科書的な本は、なかなか書けないものです。「ある時代の」典型的な中世史概説といえる作品です。
私は永原先生とは、お話したことはなく、丁重な抜刷のお返事をいただいたぐらいですが、お人柄もまさに「先生」という表現にふさわしい高潔な方、という印象があります。永原先生のご業績は、失礼ないいかたをすれば、現在の最先端の研究においては、乗り越えられるべき対象、ジャンルによってはすでに乗り越えられてしまった研究、という面があります。しかし、私と同じ世代の中世史家は、学生時代先生の本で勉強をした人が多いのではないのでしょうか。
その意味でも、しばしの感慨にふけりつつ、ご冥福をお祈りいたします。
永原慶二先生の訃報
No.2246
永原先生がご逝去になったという新聞の小さな記事を見つけ、愕然と致しました。
今春、知人から先生が悪性の腫瘍を患っておられる由を聞き、心配しておりましたところ、その後快方に向かわれたと伺い安心していたのですが・・・。
今年になって網野善彦、永原慶二という戦後中世史研究の前半・後半をリードされた先生方が相次いで鬼籍に入られ、先年の石井進先生とあわせて時代が大きく動いたという感慨を禁じえません。
それにしても、各新聞における網野先生の訃報との扱いの違いには苦笑を禁じえませんね。大体、業績として重視されるのは学問の内容ではなく教科書裁判のことばかり。永原先生も冥界でむっとされているかも知れませんが、ただこれも客観的な業績評価という一面を否定できますまい。
永原先生の明晰な領主制論は、それこそ上のスレッドで野口先生がご指摘になった司馬遼太郎の中世武士認識の淵源以外の何者でありません。
膨大な史料を駆使して、中世の最初から戦国時代までを見通し、各時代の研究の規範を作られた業績は否定すべくもないのですが、まさに領主制の枠組の強固さに、戦後という時代の影響を痛感せざるを得ないと思います。
永原先生の御著書、岩波新書の『源頼朝』は、挙兵から守護地頭あたりの達成までで筆を止められていたように思います。まさに、そのあとの頼朝の行動や事件に鎌倉時代を規定する要因があったのですが。
ただ、今日から見た限界を指摘することはたやすいですが、中世史研究を推進し、更新の壁となり、強固な意志をもって学問の発展に尽くされたその業績の大きさは、誰しも否定することは出来ません。心よりご冥福をお祈りいたします。
80年代の歴研大会で、永原、網野、黒田俊雄の3先生が談笑しておられる場面に遭遇いたしました。領主制、社会史、権門体制という戦後中世史を形作った理論の担い手の方々が一同に会した印象的な場面でした。
論敵であるはずが楽しそうに(内心は存じ上げませんが)語らっておられるお姿に、大人の世界を感じたことでした。
その三先生もすべてご逝去になったわけで、寂しさと時代の移り変わりを改めて感じた次第です。歴史学の果たしてきた役割や今後のあり方を考えざるを得ません。
余談ですが、最近中公の日本歴史が文庫新装版で復刊されております。二巻には直木先生ご自身の解説が掲載されており、永原先生のそれも期待していたのですが。原稿は残されたのでしょうか。執筆者の先生方でご健在なのは、直木、青木、佐藤先生など、数えるほどになってしまわれました。
このシリーズについては、某先生が印税で1965年当時稀有な全館冷暖房の豪邸をお立てになり、「人民のための歴史学などと言っているくせに」と嫉妬されたとか、お住まいの県の長者番付に載ったとか、銀座で豪遊して印税を使い果たし、税金が払えなくなったとか、話題に事欠きません。残念ながら、そんなエピソードも今となっては考えられなくなってしまいました。
その編集長宮脇俊三氏も、旅行作家として活躍されましたが、昨年物故されました。井上光貞氏の文章に真っ赤に朱を入れた編集者としての気骨と、的確な指示があのシリーズの成功を呼んだのでしょう。
ついでに余談。野口先生ご指摘の司馬遼太郎の鎌倉武士理解、高橋昌明先生の書物を読んでも、①と③は変わらないのではないでしょうか。
あたらしい「東国武士論」の構築を。
No.2247
>美川先生 久方ぶりの御登場、とてもうれしく存じます。その後、ご体調は如何でしょうか。
>元木先生 余談の御指摘ですが、「武士」理解と「鎌倉武士」理解を明確に峻別すればそのとおりだと思います。高橋先生が「鎌倉武士」に限定した武士論を展開されることを期待したいところです。もっとも、「鎌倉武士」と称するものは武士ではない、と斬り捨てられれば、それでおしまいですが。
しかし、それこそ東国武士については、いまだに「領主制論」的発想が大手を振っている現状がありますから、あたらしい「鎌倉武士論」ないしは「東国武士論」を明確に提示する必要は大きいと思います。
ちなみに、最近、院生・学部生さんたちの研究会で、東国武士関係の報告を聴くと、なにやら7~80年代以降の研究成果が踏まえられておらず、60年代に戻ってしまったような感じのものが多いのは何故なのでしょうか。関西圏に限った現象なのでしょうか?小生にはオールディーズを聴いているようで懐かしくて面白いのですが。
なお、このジャンルに関しては、いよいよ川合康先生の論文集(校倉書房)が10月に刊行の予定とのことです。
ところで、元木先生、清文堂の論集の方は如何ですか?
東国武士論
No.2249
野口先生、ご指摘のとおり、高橋理論において所謂東国武士は「セミプロ」と位置付けられていますので、真正な武士には入らないようです。
以前書評で記しましたが、王権に従属する真正な武士を勇猛なセミプロが打倒するという理解は、すなわち、貴族的武士を勇猛な東国武士が打ち倒すという通説的図式に帰結してしまいます。したがって、東国武士理解も、領主制論とどのように異なるのか不明確です。
もっとも、頼朝挙兵に参加した武士にも真正な武士が加わっているとのことですし、幕府が出来ると武士認定方法が大きく変化し、荘園・公領制に反感をもつ武士が登場するとのことですから、鎌倉時代以降の鎌倉武士に関する理解を提示してもらいたいものです。
王権に従属する武士を基軸として分析したのでは、平安は理解できても、中世、まして近世の武士は到底理解できないと思います。
高橋先生をはじめ、当方も含めて武士職能論の研究では在京する武士=軍事貴族が研究の中心であり、東国武士が捨象されているのは事実です。このへんに武士職能論の限界もあるでしょうし、最近の若い方々が東国武士を論ずる時に領主制論に依拠する原因もあるのかも知れません。
仰せのとおり、新しい東国武士論が必要な段階ですが、その突破口を開き、新たな研究水準を示すのは、やはり研究蓄積、史料分析能力などあらゆる面から見て、今日の東国武士論の第一人者の方であり、「更に他者にはあらざるか」。
別に「大天狗」になぞらえるわけではありませんので念のため。
清文堂の件、あと三人です。お一人は今週中に出すとのこと。あとのお二人は、「進めている」「なるべく遅れないようにする」とのこと。近藤先生あたりを編集補佐にして、取り立ててはどうかと思いますが。
ちなみに今週出るという項目は清少納言・紫式部、まだなのが藤原道長、白河法皇・・・。
日程を区切って、出さないなら交代させろと編集者に強く申しております。先方はリザーブなんているわけないと高をくくっておいでのようですが。
最悪、道長は5巻に入れる、白河は『中世の人物』に入れたらいいと思います。
なお『中世の・・』は古代完結後に刊行されるかもしれないとのことです。妄想の中で第一巻『院政と源平の戦い』の項目、執筆者を考えたりしているのですが、生きてるうちに出るやろか。