異端者の年末雑感

No.19886

 Facebook(野口実)にも書きましたが、出たばかりの『古代文化』第6巻第3号に大島佳代さんが執筆された拙編著『中世の人物 京・鎌倉の時代編 第二巻 治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立』(清文堂)の新刊紹介が掲載されています。ぜひお読み下さい。
 大島さん、ありがとうございました。

 年末なので、どこもお正月の準備に忙しいらしく、迷惑メールすら届かなくなりました。
 一般の家庭では大掃除などに追われていることと思います。しかし、御承知のように当方は「普通」ではありませんので、主体的な時間使用が可能になるこの時期は世間の方たちとは異なった行動を選択することになります。しかし、残務処理が多すぎて、未だ論文執筆の開始には至っておりません。

当初の計画では冬休み明けまでに論文一本、それに論文一本に相当する論文集の序章を執筆し、研究紀要掲載論文の再校を終わらせるという手筈だったのですが、なかなか思うようには参りません。まだ、年賀状を書いている段階です。

 年賀状など・・・と思われる向きも多いかも知れませんが、去年頂いた年賀状を再読することは、日頃意識にのぼらなくなっていた大切な古い知人たちの存在を再確認するよい機会になります。
 宛先もすべて手書きで書く、もちろん自署も。久しぶりの万年筆がひどく心地よく感じられます。毛筆なら尚更でしょうが、私は毛筆書きが苦手なのです。
 暇が出来るようになったら書道でも始めたいものです。

☆ 金澤正大先生より、御高論「「奥州合戦」に於ける鎌倉幕府軍の構成」(『政治経済史学』574)を御恵送頂きました。
 金澤先生に、あつく御礼を申し上げます。

 ☆ 愛知大学の山田邦明先生より、新刊の御高著『敗者の日本史8 享徳の乱と太田道潅』(吉川弘文館)を御恵送頂きました。
 山田先生に、あつく御礼を申し上げます。 

「相模台の戦い」と山田先生について

No.19993

はじめまして。松戸在住の郷土史愛好家です。松戸の「相模台の戦い」に関心を持って色々調べているのですが、『葛西城とその周辺』(たけしま出版)の中で山田先生が書かれている「総論:室町・戦国時代の東国社会」の記述に、「通説」とは異なるような考えをされていることを知りました。
 本来は、愛知大学の山田先生の研究室に問い合わせしたいのですが、メール等の連絡手段が不明ですので、勝手ながら、野口先生のこのサイトをお借りさせてもらいました。ご容赦下さい。
 さて、山田先生の「通説とは異なる」との記述とは、上書40頁『伊勢宗瑞も江戸のそばまで攻め込んでいますが、その後継者の北条氏綱は、1524年にとうとう江戸城を奪取することに成功します。葛西は上杉方の拠点としてしばらくふんばっていますが、1538年の国府台の戦いで北条氏が勝つと、葛西もこらえきれず翌年落城します。そして葛西は北条氏よって掌握されます。』の部分です。
 ここで山田先生が「葛西」と書かれているのは、大田氏が支配していた「葛西城」を中心とした「葛西地域」という意味のようにも思われます。一般的には、葛西城は『快元僧都記』に拠って「氏綱が葛西城を攻め落とし、さらに岩付城近辺を放火する。国府台合戦』(同書249頁)の順となっていますので、山田先生が「葛西もこらえきれず翌年落城します」と書かれると、どことなく「違和感」が残ります。
 私は、第一次国府台合戦(相模台の戦い)に関心を持っていますが、正直、地元の人間として『快元僧都記』の記述内容には「疑念」を持っております。特に「猿ケ又」を迂回して松戸(渡し)に進軍するという記述は、些細な「進軍路」の問題ではありますが、この戦いに関して僧快元は単に「伝聞」を書き留めたに過ぎないと思ってしまうのです。
 しかし、山田先生が「葛西は翌年落城」と書かれると、状況は大分変わってきます。つまり、氏綱軍主力は江戸城を出て、浅草、奥戸方面に進軍しながらも、他の後北条方勢力が北の岩付方面からやってきたことも考えられます。そうすると「猿ケ又」云々の話は単なる「伝聞」とばかりは言えなくなってきます。
 ともあれ、山田先生の正確なお考えは、上書では多少「あいまい」なものがあるように感じてしまいます。勝手ながら、野口先生がこの辺りの研究者の方々のお考えをどのように捉えられているかをお教え頂けると幸いです。