防御性集落。立命シンポ。ゼミ旅行。

No.1929

 昨日の朝日新聞に青森県八戸市の林ノ前遺跡から前例のない数の鉄のやじりと縛られた人骨などが出土したことが報じられ、10世紀後半~11世紀の東北地方は激しい戦乱社会で、従来の安倍氏による平和という認識は覆されたというコメントが付されていました。ただし、現在の盛岡市より南にはそのような遺跡は検出されていないようでもあり、東北南部と北部を分けて考えるべきなのでしょうか。防御性集落については、斉藤利男先生の「軍事貴族と辺境社会」(『日本史研究』427)をもう一度読みなおす必要がありそうです。明日の同志社での講義で、前九年合戦を取り上げるに当たって、この問題、ちょっと考えさせられております。
 
 明日といえば、午後に立命館大学人文学科開設記念のシンポジウムが予定されています(NO.1792)。永井路子氏の『吾妻鏡』論も聴けそうですから、『吾妻鏡』講読会参加者は出来るだけ聴講にお出かけ下さい。

 >田中さん  本日、久しぶりに名鉄観光の八井さんが研究室にお見えになりました。これからの観光について意見交換したり「小京都小城」の紹介やらで一時間ほど話しこんでしまいました。九州旅行のフリープランがいろいろあるようですので、ゼミ旅行担当者や平田さんとともに、小城・久留米方面のゼミ旅行について、ぜひ御検討いただければと思います(笠さんのおられるうちに)。
 
 また、平泉や鎌倉(前回参加していない2回生から)についても希望が出ていますので、希望者は率先して原案づくりをして頂ければと思います。事前勉強をしっかりやって、おおいに見聞を広めたいものです。

 ☆ トップページのアクセス数が本日、30000を突破したようです。管理人のご両人にはお手数をおかけいたしますが、掲示板以外も、みんなで協力して充実を期したいものですね。

私も興味があります。

No.1933

 青森県八戸市の林ノ前遺跡の記事、私も読みました。10世紀後半~11世紀という時期は、まさに武具が中世化する時期ですから、どんな鏃の形状なのか是非調査してみたいものです。野口先生、良かったら、ツアーを組みますか?八戸まで、東京からですと、「はやて」が開通して本当に早くなりました。

 なお、渤海などの北方アジア地方の鉄鏃や北東北の防御性集落の鉄鏃との関連から日本での鉄鏃の中世化の過程を考察した論文に、津野仁「中世鉄鏃の形成過程と北方系の鉄鏃」(『土曜考古』25号 2001年5月)があります。

私もまた興味あります

No.1934

 朝日新聞の記事は未読です。取り急ぎ図書館で読んでみたいと思います。昨夏以来、うちは京都新聞に乗り換えましたので。

 ところで、弓箭の技術というのは高度に特殊なものなのか、或いは誰でもそこそこ扱えるものなのでしょうか。
 たとえば伊賀国黒田庄の「住人」が、国使に矢を射掛けるという史料がありますが、そこでいう「住人」とはどういった人物を想定すべきなのか。普段は農業(或いは非農業)に従事している人間がいざというときは弓を手にするのか、もしくは弓箭の達者な者をいざというときのために雇ってあるのか。
 弓道の試合では、百発百中に近い命中率でないと「試合にならない」と聞いたことがありますが、黒田庄の紛争でもそうだったとすると、とても素人には手が出せそうにないように思います。ただし、弓道で使う的は反撃してきませんから、ここでの技術は所謂クローズド=スキルということになるので、敵が反撃してくる実戦での撃ち合いのなかでの技術(オープンド=スキル)とは単純に比較できないんですが。
 みなさんのご意見を頂戴したく存じます。

 MLを使うべきなのでしょうが、次回5/10(月)の『吾妻鏡』の講読会は岩田が担当します。範囲は、既に山本さんからお知らせ頂いたとおりです。どうぞよろしくおねがいします。

 神護寺ツアーに参加できず残念しきりです。
 去年、大学院の授業で「文覚起請文」を読みました。文書後半の抑えの利いた規定の数々に比べ、前半の情念に満ちた文面が印象的でした。那智の滝に打たれる荒行の末、瀕死の状態から不動明王によって甦生したとされる文覚が、あの高雄の山奥でなにを思ったのか。僕も現地でいろいろ考えてみたかったんですが。

Re: 補足

No.1935

 立命館のシンポジウムには、宗文研メンバーの中からもたくさんの方が参加され、いろいろとお話があったようですね。また詳しく教えてくださいね☆

 ところで朝日新聞ですが、ほとんどの記事はインターネットで見ることが出来ます。(土曜版のBeも読めます)
 →http://www.asahi.com/culture/update/0505/002.html
該当記事はこれでしょうか?

 弓箭の技術について>
 僕自身弓道は経験がないので、詳しい話は田中さんにおまかせですが...。
 猪とか鹿を捕らえるときに弓は使ったのでしょうか?
 近代の話にはなるのですが、京北町ゆかりの山国隊は戊申戦争時に、銃の扱いに関して“いわゆる”武士にくらべて、数倍上の命中力を発揮したらしいです。普段から獣を捕まえるために使っていたから、というのが要因のようです。それと関係はあるのかな?と想像してみました。

P.S>弓と獣で、もののけ姫を思い出しました☆馬じゃなくてヤックルですが...

中世の弓箭のことなど

No.1936

 現在の弓道で、前近代特に古代・中世の弓箭戦のことを類推するのは大きな間違いです。そもそも弓・矢そのものが異なりますし、弓射姿勢も異なります。また、弓道のように固定の的を射ることをいくら訓練しても実戦では役に立ちません。やはり動く標的で訓練しなければなりません。その意味で、騎射・歩射問わず、弓箭の訓練には狩猟が一番です。これは炮術でも同じです。不動の的ばかりを撃っていた江戸時代の炮術の師範が、狩猟では獲物に当たらなかったという史料もあるようです。
 そうしたなか、黒田荘の「住人」が具体的にどういう立場の人間であるかは難しい問題ですが、百発百中だけが弓箭の使用法ではありません。敵に当たらなくても、攪乱したり、敵を近付けないようにもでるわけです。その点が飛び道具の利点ですね。それに、弓箭や刀剣などの武具は、現在人の考えが及ばないほど身近なものであったと思います。農業従事者だから武具が使えないというのは、現代的な感覚だと私は思います。

弓箭について再び

No.1939

 みなさんすごく早い応答をありがとうございます。

 鈴木くん>朝日新聞の記事はきっとこれですね。ありがとうございます。

 近藤先生>飛び道具は敵に当たらなくても、攪乱したり、敵を近付けないようにもできるわけですね。なるほど。
 反撃しない固定の的を相手にすることと、動きもすれば反撃もする敵を相手にするのでは、必要な技術が違うというのは兼ねてから私も考えていたことでした。弓道の例を引いたのは軽率でしたが。近藤先生も仰るように、弓箭や刀剣などの武具が現代人の考えが及ばないほど身近なものであったとすれば、そのなかで更に武具の扱いに関して「専門性」を持つ人たちとはどういうものなのか、また史料をみながら考えてみたいと思います。

弓箭について再び

No.1942

だからこそ、武士という存在の定義が難しいわけです。

武士論研究者は武士。

No.1945

 近藤先生、旅行のお誘いと、津野さんの御高論の御教示ありがとうございました。小生は武器そのものというより、地域の状況について関心があります。ただ、今秋、東北福祉大学の岡田清一先生のお招きで仙台に行く機会がありますので、そのおりに余裕があれば行ってみようかとも思っております。
 それから、上記の議論は、儀礼としての武芸と実戦でのそれに関する騎射をめぐるかつての論争と共通する問題だと思います。この論争の当事者は、近藤先生をはじめ、川合康先生・元木泰雄先生・高橋昌明先生・下向井龍彦先生といった錚々たる武士論研究者で、その頂点は、もうかれこれ10年ほど前、近藤先生が日本史研究会の大会報告をされたときだとうかがっております。
 小生、残念ながらこのときは出席できなかったのですが、近藤先生は大判の封筒を大鎧の袖に見立てて実演をされ、質問者はみな大柄なマッチョ風の人が多く、白熱した議論の応酬はまさに戦闘そのものであり、「武士論研究者こそ職能人としての『武士』そのものだ」という神話は、このときに成立したと漏れうけたまわっております。
 なお、小生も同じ本に執筆していますので、宣伝を兼ねて、川合先生の御高論「中世武士の武芸と戦闘」(馬の博物館編『鎌倉の武士と馬』名著出版)を紹介させていただきます。