出羽清原氏の出自に関する新事実(野中哲照先生より)

No.16740

 鹿児島国際大学の野中哲照先生から、とても重要な研究成果をお送り頂きました。
 出自が判然としなかった出羽山北清原氏と吉彦秀武の出自が、これまで見過ごされていた系図(『諸系譜』巻一四所収)を検証したことによって判明したというのです。
 野中先生はこれまで長く前九年・後三年合戦について精力的に研究を進めておられ、また国文学者として書誌は御専門ですから、この「発見」の意義は大きいものと思います。
 清原氏の血統は「思いがけないほどの貴種に属する」とのこと。これは近年、私達が進めてきた武士論研究の成果とも整合する事実だと思います。
 「下から」とか「在地」を強調する史観の相対化という意味においても重要でしょう。

 野中先生が、清原氏・吉彦氏の系譜に関する御研究の結論として示されたなかで、とくに私が注目したいのは、
  ① 清原氏が俘囚の管理を含む辺境警衛にあたっていたこと。
  ② 清原氏の山北入りが意外にも遅く、光頼・武則兄弟の父の時代であったこと。
  ③ 吉彦氏が移民系の俘囚で、北奥の蝦夷鎮定に活躍していたこと。
  ④ 吉彦氏が(外)従六位下郡司少領だったこと。
  ⑤ 清原武則の妹が橘氏に嫁して貞頼を生んだこと。
などの点です。
 この御研究に東北地方の古代中世史を専門にされている歴史学の研究者の方たちが、どのような対応を示されるのか注目してまいりたいと思います。

 そういえば、以前、この掲示板で清原「貞」衡と「真」衡の問題で議論になったことがありましたね。

 今回、野中先生から御恵送頂いた御高論は以下のとおりです。野中先生に、あつく御礼を申し上げます。また、軍記語り物研究会大会でお目にかかれることを楽しみに致しております。
 ☆ 「出羽山北清原氏の系譜─吉彦氏の系譜も含めて─」(『鹿児島国際大学国際文化学部論集』15-1)
   「後三年の戦後を読む─吉彦一族の滅亡と寛治六年清衡合戦─」(『鹿児島国際大学大学院学術論集』5)
   「吉彦秀武の系譜-二人の「荒川太郎」の関係を軸に-」(『鹿児島国際大学国際文化学部論集』14-1)
   「もう一つの後三年合戦像─公戦・私戦判定をめぐる軋轢から─」(『古典遺産』62)
   「『後三年記』序文の偽書性」」(『鹿児島国際大学国際文化学部論集』13-4)