初めまして

葵桂
No.16442

『伝説の将軍 藤原秀郷』を拝読させて頂きました。
いくつか気になる点がありましたので、此処に列挙させて頂きます。
P1
二行目の「ここ」が瀬田の唐橋を指すとすると、人々を困らせていたのは大百足ではなく、大蛇。
P41
将門誅殺報告が03/05、将門首級到着は04/25ですが、「二十五日に至って」だけでは03/25と誤読する可能性が高い。
P43
藤原弘雅
藤原公雅の間違い?
P66
藤原千方を秀郷の子としているが、P68では千方は千常の舎弟で養子になっている件。
P71
征東副将軍を平清幹としてますが、副将軍は征東大将軍・藤原忠文の弟である刑部大輔・藤原朝臣忠舒では?
P34では藤原国幹が平清幹と併記されていますが、征東副将軍と、征討軍の副将軍は別物??
P100
「天の与えたるところすでに武芸にあり」は新皇即位宣言中ではなく、忠平への将門の書状内。
P105
「垣代」が帯剣するのは、『青海舞』序・輪台、破・青海波に於ける垣代楽人が武官装束であることに言及しなければ、何故、「判断が妥当」なのか理解出来ない。
P121
『青海舞』に関連して、『古事談』の「園城寺の鐘は龍宮の鐘也」という言説は、『教訓抄』の「青海波ハ龍宮ノ楽也」に酷似していますが、成立年代も近いので相互影響があったと看るべきでしょうか、御教示頂ければ幸いです。
編集:2014/07/13(Sun) 23:06

御返信。

No.16443

 葵桂様
 拙著を御精読くださり、ありがとうございました。
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