皆さん、お疲れ様

No.1570

すでに、美川・佐伯の両先生からのご報告にもあるように、屋島・壇ノ浦ツアーは天候にも恵まれ、大成功理に終わりました。元木・美川・佐伯の各先生、下関で運転をしていただいた石浜さんはじめ、参加の皆様、お疲れ様でした。私をはじめ、各自今回の成果を研究に活かせればと思っております。
 
また、この掲示板をみることはまずないと思いますが、ご多忙のなか屋島で運転と案内をしていただいた、私の畏友石川和子さんには、この場を借りて深く感謝申し上げます。

さらに、ツアー前には、色々とご教示いただいた野口先生にも感謝申し上げます。私事ですが、じつは3月9日に一家で転居し、その混乱の中で、レスを入れることができませんでした。その点、お詫びも申し上げます。

ただ、平家物語歴史館は、高松から屋島へ向かう途中にあり、また我々が宿泊したホテルの近所でもあり、その前を車で通り、場所も確認したのですが、時間の余裕が無く、佐伯先生のレスにもあるように、見学することはできませんでした。

また、何か企画したいと思います。今後とも、よろしくお願い致します。 

総大将の凱旋。

No.1572

 総大将の近藤先生は相模の新邸に、元木先生も摂津の本邸に無事御帰還との御報告をいただき、これにて在京守護のつとめを終了と相成りました。ご出征中、別事はありませんでしたが、懸案の『紫苑』がようやく納品されました。後刻、直接お渡しあるいは御送付申しあげたいと存じます。
 好天にも恵まれ、また何よりも、『平家物語』ツアー史上、信じがたいほどのベストメンバーでの御旅行でしたから、さぞかしの戦果があったことと推量いたします。石浜さんも来年の大河ドラマ対策は万全でしょう。今度は六波羅あたりを念入りに御案内いたしましょう。
 さて、それにしても論功行賞の結果や如何?留守居役への恩賞は如何?
 平家物語歴史館については、小生の偏向した性格に基づく「趣味」によるご推薦でありますので、お気になさいませんように御願い申しあげます。でも思うに、遠路高松を訪れた観光客などは、明るい間はフルに屋島などの野外の見学に時間を使いたいに決まっているのですから、こういう施設は夜間開館を考えたらよいのですが。

 >近藤先生。小生など耄碌して「起床時無呼吸症候群」になりそうです。冗談はともかく、お引っ越し大変だったと思います。小生、就職して以来、千葉→京都→鹿児島(この間、台風被災で一度転居)→千葉→京都と引っ越しのベテランですが、そのたびに書籍・研究資料の消失と散逸がどのようにして発生するのかを体験しております。そして、自ら所有しているはずの資料の所在がわからなくなり、自分の書いたものもわからなくなり、・・・研究に重大な遅滞をもたらす羽目に陥っております。もとより、日本各地の地域による社会風土の相違についての認識などなど、転居によって得るところも多大なのですが、このマイナス面は深刻なものがございます。京都に落ち着いて五年目になりますが、かかる後遺症のために、未だに、蔵書・資料についての整理はついておりません。
 図書館なみの書庫を御自宅に設置しておられる山田先生などのようなお大尽研究者がうらやましい今日この頃であります。
 
 >長村君。元木先生のご指示によるところの、詳細なる「合戦日記」の御注進を楽しみに致しております。今回の遠征軍における貴兄の役回りは中原信康だったようですね。

お礼

長村祥知
No.1573

みなさまおはようございます。
私も昨日無事に帰宅しまして、そのまま寝て今日起きたら○時(恥ずかしくて言えません)でした。駄目人間っぷりを発揮してしまいお恥ずかしいかぎりです・・・

さて、今回の旅行では近藤先生に宿・切符の手配をして頂き、元木先生・佐伯先生には個人的にお話を伺うことができ、多くの事を教えていただきました。
美川先生には伊勢の時にいろいろなお話をうかがうことが出来たのですが、今回の旅行ではあまりお話が出来ず残念でした。また今度宜しくお願いします。
石川さん(近藤先生のご友人の女性)・石浜さんが車の運転をしてくださったお陰で、一人では観る事の出来ない数々の史跡をたずねる事が出来ました。
若手研究者として身近なお手本である横沢さん・吉田さんとお話できたこともうれしかったです。
私一人が飛びぬけて若輩であるなか、先生・先輩方のお陰で、多くを学ばせていただき、楽しい旅となりました。ありがとうございます。

こちらはまじめなお礼として一旦掲示するので、遊び的要素の入った遠征軍の合戦日記はこの下に書き込ませていただきますね。

『合戦日記』「屋島」

長村祥知
No.1574

とはいえ、全体の行程は、>>No.569の元木先生の報告が要を得ていますので、私にとって印象的だったシーンに重点を置いてご報告申し上げます。先生方に失礼な表現があろうかも知れませんが、一笑に付していただきたく思います。

16日。
私は京都駅8時23分発の鈍行列車で高松着12時30分。その日のお昼は駅構内の立ち食いうどん屋で月見を食べました。いきなりうどんです。
改札を出ると、半そで姿の近藤先生にお会いしました。(以前11月にお会いした時も半そでだったような・・)
佐伯先生から「屋島」・「八島」の御論文を頂戴して感動。(謡曲にも言及されていて、部活で狂言をしている身として、夜にホテルで興味深く拝読させて頂きました)
駅を出て、石川さんにお会いしました。やさしそうな女性で、ジムを経営されているそうです。
その後、石川さんに車を運転して頂き屋島見学。
大雑把に言うと、長崎の鼻→古戦場一帯→屋島寺→六万寺→志度寺と回りました。
古戦場のうち、「菊王丸の墓」での一光景をご紹介しましょう。
その墓域は小学校の隣にひっそりと佇んでおり、我々が訪れた際には小学生の下校姿がちらほら見られました。そこへ8人乗りのワンボックスカーが横付けし、前のドアから体格の良い半そでの男が、後ろのドアからも体格の良い男(某国立大学教授)がぬっと現れたわけです。ちなみに、八人乗りの車に九人乗るため、後部座席(三人仕様)に旅行参加者の中で若い四人(学生・院生×2・カリスマ編集者)が詰め込まれているのです。小学生、びびってましたね。はたから見ても、小学生を拉致しかねない不審者集団だったでしょうし(笑)
通報される事は無く、佐藤継信墓等付近の史跡を回って、屋島寺に行きました。宝物館で近藤先生の解説を伺い、その後、寺のある山の裏側(談古嶺)から古戦場一帯が一望できました。
志度寺には、藤原房前にまつわる宝珠の伝承が縁起として伝わっていました。謡曲「海女」というのがあり、志度寺の縁起と大枠は似ていながら、謡曲のほうは藤原氏がひどいのですが、寺の解説板では謡曲の事には一切触れられていませんでした。
そして時間が無くて、残念ながら、野口先生やゼミの先輩方からお勧めしていただいた平家物語歴史館には行けませんでした。(もしかして、「破門」・「野口ゼミで村八分」ですか??)
夕食は素人っぽい名前の店に行きました。
待たされること40分ほど。美味しいお刺身が来ました。でも天麩羅が来るのに、さらに一時間近く待たされ、あまつさえ煮付けに至っては、その時点でまだ作り始めてもいなかったのです。
味はほんとに美味しかったのですが、あれはちょっと・・・総大将や副将軍から「私的制裁」が加えられても仕方有りませんよね(誰も何もしていませんよ。念のため)
ちなみに、四人がけテーブル二つで座ったのですが、私のついたテーブルには近藤先生と横沢・吉田両先輩。近藤先生の「遠慮すんな」という言葉もあり、あれだけ待った料理が10分足らずで無くなりました(笑)。支払いの際には先生方のご好意に甘えさせていただきました。有難うございます。
次に行った店では、常識的な時間差で料理が来ました。
ホテルの朝食はバイキングでした。なんと、うどんがあったのです。さすが讃岐。おいしかったですよ。

『合戦日記』「壇ノ浦」

長村祥知
No.1575

17日。
下関に移動して、石浜さんに運転していただき、住吉神社→覚苑寺→功山寺→赤間神宮→火の山→関門海峡大橋を渡って門司の和布刈公園の順で見学しました。
屋島も含めて、今回の旅行では高い所から古戦場の景観を眺める事が出来ました。それも一つの所からではなく、色々な角度から見ることが出来たので、占地の重要性や、どこから何が見えるのかといったことが実感できました。
というのは、海岸がいりくんでいることもあり、山から見るとはいっても、場所によっては別の山が視界をさえぎる事があるのです。高さ・地理ともに火の山が最も壇ノ浦を見渡せる場所であるということが良く分かりました。
夜に横沢さんと美川先生がお帰りになり、夕食は残る六人でふぐを食べました。お刺身・から揚げ・鍋・雑炊。近藤先生はさらに丼まで。勝てません。
カクテル一瓶を吉田さんと半分こにして飲みましたが、それすら最後まで飲みきることが出来ませんでした・・・
こちらでも先生方のご好意に甘えさせて頂きました。ご馳走様でした。
その後ホテルに戻り、佐伯先生のお部屋に押しかけてお話を伺わせて頂きました。以前から先生にお会いしたいと思っていたので、お話ができて感動です。佐伯先生、お疲れのところ多くのご教示を賜り有難うございました。

『合戦日記』「壇ノ浦」続

長村祥知
No.1576

18日。
朝食のバイキングでは明太子がありました。ホテルの朝ごはんには名物を出すようですね。この日は、海峡夢タワー→唐戸から海峡連絡船で門司→海上クルーズ(ボイジャー号)→門司港レトロ展望室
、解散でした。
やはり海に出ると、広さや地形が実感できます。出発前の天気予報では雨50%で、雨が降ったら僕が人柱に立てられるのかなぁなどと考えていたのですが、17日夜に降ったので当日は好天でした。船、最高ですよ、ほんとに。
とはいえ、アクシデントが無いわけではありません。船の上で吉田さんに海水がかかった瞬間は、僕も一瞬何が起こったのか分かりませんでした。
お昼ご飯は中華料理。これも美味しかったです。
下関、門司には展望台の類が多いような気がしますが、気のせいでしょうか??

『合戦日記』こぼれ話

長村祥知
No.1577

解散後、元木先生と門司駅周辺を少し歩いて九州鉄道記念館に行きました。先生に解説して頂き、展示自体もなかなか楽しかったです。町並みを背景に、先生が僕を写真に撮って下さったのですが、我々は親子のように人目に映ったのではないでしょうか。伊勢の「野口パパ」に続き、「元木パパ」ですね(笑)
その後、新幹線で大阪に帰り、先生お勧めの「すえひろ」で夕食を食べました。肉が美味しすぎです。ここでもまた先生にお気遣い頂きました。先生ご馳走様です。
そして、さらにさらに続きます。ホテルの地下のバーのようなところ(あのような店を正式には何というのでしょうか?そして店の名前は??)に連れて行って下さいました。とてもよい雰囲気の店でした。そこで出されたウィスキーのボトルには「熱田様」と書かれた札が掛かっていたのです。元木先生曰く、「ここにきたら熱田先生に会えるんだ」。感動的な一こまでした。そして時を忘れて話に興じていたらもう十時。家路につきました。
元木先生、とても楽しかったです。ありがとうございました。

旅行を通じて、自分が史跡を見るだけでなく、先生方の学問的な会話を真横で聞く事が出来たのも大きな収穫でした。また、先生・先輩方と親睦を深める事が出来た事をなによりうれしく思っています。同行させていただきまして本当にありがとうございました。

『合戦注進状』拝読了。

No.1578

>長村君。
 遠征の感動さめやらぬ間の御注進、かたじけなく候。それにしても、貴兄は、あっという間に書き込みの最長記録を樹立しましたね。
 「菊王丸」の墓の近くの小学生たちは、さぞかしビックリしたことでしょうね。佐伯先生あたりが監督で、付近の人たちの中には、ヤクザ映画のロケが始まるのではないかと期待された向きもあったのではないでしょうか?
 ご馳走の接待攻勢で、いつも3講時の授業のあとに定食を召し上がっている大食の長村君にとっては夢のような三日間であったことと思います。
 元木先生をはじめとする先生方や諸先輩、カリスマ編集者とのお話しで、多くのことを学ばれたことと思いますが、とりわけ思想史に造詣の深い貴兄にとっては、佐伯先生とじっくりお話しできたことは大収穫だったと思います。『紫苑』掲載論文の御批評もうかがえると良かったですね。
 大阪での熱田先生のボトルのお話は、元木先生のお人柄を彷彿とさせます。良い話しですね。貴兄も良き師に巡り会ったというわけですよ。
 いずれにしても、たった三日で大学の単位なら20くらい取得できたように思えます。野口パパとしては、「とうちゃん、うれしくて、涙が出てくらぁ」です。

蛇足的補足

No.1584

 長村君、早速丹念な旅の一コマ一コマを髣髴とさせる旅行記をお書きいただき楽しく拝読しました。
 ただし、厳密には不正確なところもあります。菊王丸の墓の後に見学したのは嗣信の供養塔で、安徳宮見学後、屋島寺に行き。しかるのちに嗣信の墓、平家総門跡、弓流しのあとを見学して、六万寺に行きました。また志度寺のあと、石川さん経営のフィットネスクラブにも立ち寄りましたね。
 貴君は、朝食に讃岐うどんがあって旨かったと淡々とお書きですが、近藤先生の4玉につぐ3玉を平らげたことが話題になっておりましたね。野口先生のお話で、貴君が日ごろから大食の由と伺い、合点が行きました。
 近藤先生の丹念な解説と言う点では、住吉神社の宝物館の鞍も忘れてはなりません。あの様子を見た神官氏の報告のためか、わざわざ宮司さんが見送りに来た?のも特筆ものです。その宮司さんの兄上が赤間神宮の宮司さんの由。残念だったのは、神宮のすぐ近くに高層マンションが相次いで建設され、神宮からの海峡の眺めが随分阻害されていることです。何とかならないものかと思いますね。そのうち、神罰が下るか、幽霊が出るか・・・。
 ちなみに自画自賛ではありませんが、和布刈公園への道では、当方老眼にもかかわらず、カーナビより早く道を確認いたしました。大分ガタが来ておりますが、まだまだ、捨てたものではありません。
 門司港レトロ、なかなかの人気で団体ツアーなど、多くの観光客でにぎわっておりました。屋島とは大違いというところでしょうか。関門トンネルのルートからはずれ、古い町並みが残ったことを上手く利用したわけですが、海上遊覧、展望台、鉄道博物館、グルメ、美術館などの付加価値が結構効果的に機能しているようでした。
 下関にも同様の要素があり、一体化した観光地として集客力があるようですね。海峡をはさむ独特の地形は、高いところから見ると一層興味を引きます。あちこちに展望台やタワーが出来るのも当然といえましょう。しかし、公営施設である下関の海峡夢タワーは、場所が中途半端なこともあって、ガラガラ。次に行く時まで残っているでしょうか。それはともかく、下関、門司双方とも巌流島を重視しており、大河ドラマの影響力の大きさを再認識させられました。来年の義経で、また壇ノ浦がブームでしょうか。なお、佐伯先生のお話では、宮尾さんは義経は大嫌い、清盛大好きで、ドラマの当初のタイトルは清盛と義経だったとか。それがいつのまにか義経になってしまったとのことです。ますます期待出来そうにありませんね。下関で野口先生が取り上げられた藤原義江の記念館に行く余裕がなかったのが、唯一心のこりです。
 長村君には14時の解散後、22時にまでお付き合いいただきました。馬鹿話も多かったし、歓談時を忘れる思い出はありましたが、この業界の裏面、暗い部分も色々お話したと思います。そちらの方も、お忘れなきように願います。なお、御連れしたレストランは「スエヒロ」(カタカナです)、二次会はバーラウンジ「ビーツ」です。お姉さんが楽しいサービスをしてくれる店、ではありません。ここは、昨秋、多田神社見学会の「前夜祭」を行ったところです。また前途有為な青年を酒食の道に引き入れてしまいました。これが本当の「酒呑」童子?

卒業・教職・進学

長村祥知
No.1603

元木先生、訂正ありがとうございます。
半分寝ている頭と体を起こして、うけそうな話題を忘れずにと思って書いた結果、部分々々でいささか杜撰になってしまいました。
しかし「酒呑」童子とはいいえて妙ですね(笑)

さて、田中姉さんの書き込みにあったように、私長村祥知は去る3月20日、大学を卒業しました。
高校三年生の時に読んだ夏目漱石の『三四郎』の時代と現代とに大きな隔たりがあることは言うまでもありません。しかし、学問への思いや友情・家族・クラブ等々、かくありたいと思った大学生活と『三四郎』に垣間見たそれは、明治・平成間の時代の隔たりほど大きく乖離するものではなかったように感じています。
そう思うと、大学への進学が何ら珍しいことではなくなったとはいえ、学位記に「学士」とあるのがとても嬉しく感じられます。

現行の制度では中・高校で教鞭をとるには教員免許が必要です。
思い出せば子供の頃から教職につきたいと考えており、また、大学に進学して好きなだけ日本史・文学の勉強がしたかったので、両方をかなえる為にそれなりの無理もしました。
年間履修単位数の上限が定められている中で、教職必修ということで限度一杯まで登録した単位は成績表に担当の先生のお名前が記されているのですが、自分が本当に学びたいと思い単位と関係なくもぐりで聞かせていただいた講義の先生は、当然記されていません。
それでも返ってきた成績表を見ていると、在学中にお世話になった多くの先生方のことが思い出されてきます。
いずれも申請中では有りますが、大学在学中に、中学国語・同社会、高等学校国語・同地理歴史・同公民の教員免許、博物館学芸員の資格を取得した事は、決して楽ではなかった忙しかった日々の結晶であり、自分にとってだけ価値のある、ほんのささやかな喜びでもあります。
教育実習で得た感動は、ともすれば辛さだけを感じることもあった講義の思い出を忘れさせるものであり、いつ教壇に立つ事になろうとも望むところです。

そんな教員免許取得と並行して学部四年間しかできないと思っていた研究を、大学卒業後も続ける事を許してくださった元木先生や、ここまで教え導いて下さった野口先生をはじめとする(多くがこのHPは見ておられないであろう)先生方には感謝の気持ちで一杯であり、これからもご指導をお願いする次第であります。


付。
3月24日って何の日かご存知ですか?