研究発表

No.1507

本日ゼミに参加してくださった皆様へ。
 プレ発表を聞いていただいて、ありがとうございました。自分の頭で考えているだけでは、考えの及ばない事も多く、卒論からずっと建礼門院を扱っているからこそ、指摘されて初めて気づいた事もありました。まだ、準備も勉強も終わっていませんが、自分の方向が定まってきたような、そんな気がして、楽しく勉強できそうです。ただ・・・お聞きの方は分かると思うのですが、口頭でのプレゼンがとても苦手です。お気づきの点がありましたら、本当にどんなに些細な事でも教えていただけたらと思います。

>山内さんへ
 たぶん、とても分かりにくい発表だった事と思います。ごめんなさいね。

歴史学からの『平家物語』研究。

No.1509

 田中さん、昨日は御苦労様でした。田中さんの御報告は、時にレジュメに示されていないところにも、とても優れたところがありますので、研究会に参加された方が、いかにそれを上手く引き出されるか・・・でしょう。それにしても、せっかくの持ち味を上手くレジュメに反映されるよう、一頑張りされたらよいと思います。
 ちなみに、昨日は野口タクシーの利用者がおられませんでしたが、みんなで何処ぞに繰り出したのですか?
 それにしても、昨日の御報告の本題からはズレますが、延慶本と四部本の記事から、建礼門院が六波羅を望見できる鷲尾に住み、ここで亡くなったというのは、確定的な事実なのに、一般に知られていないのは残念ですね。
 それから、話は飛びますが、後出本の『源平盛衰記』にしか見えない記事に、結構、歴史の方から検討したさいに正確な記述が多いというのも注目すべき事だと思っています。最近、軍記関係の国文学の学会に歴史の研究者をお呼び下さるケースが多いのですが、歴史の方も積極的に国文学の研究者と交流する機会を設定していかなければならないことを痛感させられます。
 ちなみに、京都女子大学宗教・文化研究所では、本年6月26日(土)に、国文学からは兵藤裕己氏(学習院大学)、歴史学からは高橋昌明氏(神戸大学)をお招きして、平家ないし『平家物語』をテーマにした公開講座を開催する予定です。乞う、ご期待!!。

多気町河田の清盛塚。

No.1510

 上記の記事とは直接関係がありませんが、先般のゼミ旅行の際に、河田の清盛塚を地元の方に案内していただきましたが、あの塚に生えていた巨木というのは何の木で、いつ伐採されたのか、それとも自然災害で倒れたのだったのでしょうか?
 ようやく、河田について記録し、空間の位置づけについて考えようとしたのですが、地図は返していただいていないし、記憶はかくの如しで、唖然としています。覚えておられる方がいたら、すぐにお知らせ下されば助かります。

Re: 研究発表

山内梓
No.1513

返信が遅れてしまって申し訳ありません。
謝らないで下さい!あの発表を難しく感じたのは私の勉強不足が原因なんです。もっとちゃんと予習して参加すれば良かったと今はとても反省しています。こんな情けない後輩ですがこれからもご指導よろしくお願いします。あと、もしよければ今度是非お酒を飲みに行くときに連れていって頂きたいです。そっちの方もよろしくお願いします。

研究発表のインパクト。

No.1514

 同じ日本史の研究者どうしでも、すこし時代やジャンルが違えば、研究発表の内容を完全に理解するのは難しいことです。 たしかに、当ゼミの報告においては、初心者にもおおよその意図のつかめる報告を心がけて欲しいとは思いますが、良い報告というのは、理解できないなりにも、若い人にはインパクトを与えるところがあるものです。聴いた側が、刺激を得て、やる気になってくれればOKだと思っています。
 >山内さん 多方面において田中先輩の御指導をいただくことは実によいことであるとは存じます。それは小生も認めます。しかし、お酒の出るお店に連れて行ってもらうのはよいけれど、飲むのは20歳になってからですからね。20歳の誕生日には「盛大に」お祝いをしましょう。
 ちなみに、<歴史学者たる者?は「今は知らず」>、江戸時代には、女性の20歳前後を「年増」、23・4歳から30歳までを「中年増」、それより上を「大年増」といったそうです。
 現代の成人20歳というのは、遅すぎますね。選挙権を20歳まで与えないというのは、変革を好まない老人の策略でしょう。かの北条時宗が、連署から執権に就任したのは18歳ですから。  
 なお、NO.1510への返信、お待ちしております。みんなで、忘れてしまったのでしょうか?さては、健忘症のウィルス蔓延か?

清盛塚

No.1515

>野口先生へ。
 清盛塚ですが、塚の巨木はヒノキで(これは確実)、伊勢湾台風のときに倒れたと仰っていたような気がします。
 なお、「年増」については了解いたしました(笑)江戸時代ですと、私は「中年増」に当たるところを、野口先生が「年増」とちょっと若いめに仰っていただいたという事ですね(^^)なるほど、納得です。
>山内さんへ
 「20歳」と、長村くん言うところの「野口パパ」からのお達しです。では、今度美味しいご飯を食べに行きましょう・・・という話は、私が東京から帰った後、3月の末辺りにしようかと思っているのですが、都合の悪い日、良い日を教えてください。
>伊勢旅行参加の女性の皆様へ
 伊勢のときのお約束です。(覚えてますか?)美味しいご飯をみんなで食べに行きましょう☆というわけで、山内さん同様に、三月末で都合の良い日、悪い日を教えてください。

Re: 研究発表

No.1516

清盛塚へは行っていないので、野口先生のQuestionにはお答えできませんが...。野口タクシー、出発後のお話は出来ます☆
 研究発表会終了後、女坂を下っていたのですが、どこかへ食べに行こうという事になりました。(ウフカトーの場所はもう通り過ぎてしまっていたので)京阪七条より東に入ったところの「まんぞう(以前、『あちょぼ』という立ち呑みだった所です)」に於いて、反省会?が行われました。店員になかなかオーダーが通じないというハプニングがありましたが、9時半くらいまでみんなで談笑しました。

>田中さんへ
くだらない質問しか出来ませんでしたが、僕にとっては(もちろん詳しいことはわからないですが)聞いていて“なるほど!”と感じることのできる発表でした。
 男なので、お食事会には参加できないのが残念ですが(^_^;
 発表本番は京都の方から応援の波動を送ります(/_・)/~~~~~~

Re: 研究発表

山岡 瞳
No.1517

発表を聞きに行きたかったのですが、バイトの関係で聞きに行くことができませんでした。とても興味のある内容で、もしレジュメが余っていたらわけてくだい。m(__)m
発表頑張ってください。
どこかにお酒を飲みに行くことがあればぜひ私も誘ってください。まだ未成年なのですが…。こんなに堂々と掲示板に書き込んでもいいのでしょうか。
こんな私ですが今後ともよろしくお願いします。

Re: 研究発表

No.1519

 本日、研究発表があったため、その準備もあって、ここ数日、掲示板を覗いておりませんでした。田中さんのご発表は、バージョン・アップしたものを東京で伺えると思い、楽しみにしております。
 建礼門院の晩年、鷲尾住まいの件は、確定事項でいいですよね。歴史家の某大先生の反対もあるようなのですが…。私は、間もなく仕上げる「一般向け」の拙著(屋島・壇ノ浦ツアーに行って書き上げる予定)の最後を、女院はこの高台から京都の街を見下ろして、何を思ったのだろうか、といった結びで締める予定ので、確定事項といってもらえると嬉しいのですが…。


総大将の御裁定。

No.1522

 >山岡さん
 山内さん同様、お酒は20歳になるまでダメですよ。
 
 >田中さん
 「清盛塚」のこと、お知らせ下さり、ありがとうございました。そうですね、伊勢湾台風と小生も記憶しています。
 また、20歳前後の「若い」女性の呼称の件、御了承下さり、ホッとしています。
 それから、相次いでご本人達から指導要請のあったことでもありますし、このさい、山内さんと山岡さんの生活指導・相談役をよろしくお願い申しあげたいと思います。
 ところで、この掲示板は、ゼミメンバーのお母上もご覧になっているとのことです。というわけで、・・・
  
 >お母様をはじめ保護者の皆様
 田中さんにお任せすれば大丈夫です。ご安心ください。
 
 >鈴木君 
 御報告ありがとうございました。田中さん応援の波動は御一緒に送りましょう。後白河院陵や将軍塚から波動を送れば、関東では「鳴動」と思って、さぞかし震撼することでしょう。

 >佐伯先生
 お久しぶりです。
 建礼門院が鷲尾で晩年をおくったことに異論をさしはさんでおられる某先生について、小生は不勉強にて存じ上げないのですが、何か一次史料に反証でもあるのならともかく、鷲尾で確定として問題なしと思います。さまざまな思いをこめて、日々六波羅を見下ろしながら、彼女はここで人生の最終章を過ごしたのだと小生も想像しています。
 なお、総大将のお一人である元木先生からいただいた私信によれば、高松の平家物語歴史館には全軍で進攻されるご予定とのことです。

鷲尾住まい

No.1528

 野口先生、有り難うございました。
 うろ覚えで書いてしまいましたが、上横手先生の『平家物語の虚構と真実』末尾(私の持っている最初の版では389頁)に、延慶本の記事を批判して、「とうてい女院が静かに余生を送るような場所ではないし、こんな所で、大原御幸から数えると四十年近くも住んでいて、女院のことがまったく記録に載っていないのは不思議であり、あり得ないことである」として、女院の生存自体、承久の乱に関連づけるための虚構であるとの説が展開されています。大原終焉説が正しいと結ばれるわけです。
 もっとも、これは、延慶本の「法性寺周辺」との記述に対する批判であって、「鷲尾」を問題にされたわけではありません。そもそも、1973年の本ですから、『平家後抄』よりも前なので、角田説をふまえているわけはありません。その点、私の書き方は不正確でした。現在、上横手先生がどうお考えかは、私は存じません。ただ、『虚構と真実』の論旨によれば、「鷲尾」説に対しても、同様の批判が展開できるはずです。
 しかし、あまり積極的な論拠であるとはいえず、私はやっぱり鷲尾あたりで長生きしたという説が、現在最有力であると認識しているわけですが。

追記

No.1531

 上の私のレスへの追記です。
 「『平家後抄』よりも前なので、角田説をふまえているわけがない」というのも不正確な書き方でした。角田先生の「建礼門院の後半生」の初出は1973年ですね。(『王朝の明暗』の初出一覧によれば)。
 で、『虚構と真実』刊行と同年なので、上横手先生は、やはり角田説への批判として書いたわけでもないのだろうという点に変わりはないわけですが。
 いい加減なことを次々と書いて、大変申し訳ありません。
 

建礼門院の終焉の地。

No.1534

 佐伯先生。ありがとうございます。
 「某大先生」はやはり上横手先生でしたか。『虚構と真実』は小生もピンク色の旧版で読んだはずなのですが、このことはすっかり忘れていたようです。
 たしかに、建礼門院が承久の乱後まで生存していたのなら、公卿の日記にあらわれてないのは不審のようにも思えますが、重要人物(とくに女性)が生存中にもかかわらず史料に名を見せないことはよくあるわけですし(実朝の夫人で、文永の頃まで京都西八条の遍照心院にいた本覚尼も、貴族の日記には長く名を見せていないのではないでしょうか?)、文学的虚構というのなら、まさに大原終焉説がそれに当たるのではないかと思います。そうした方が若くして亡くなったことにもなるわけで、こちらこそ出来すぎです。
 それから、女院が善勝寺をへて、鷲尾に住んだ背後事情についての角田先生の考察は説得力があります。また、静かに余生を送る場所としてふさわしいかどうかという問題については、近年の研究によって明らかにされている当時の女性の心性に照らしても、むしろ鷲尾がふさわしいと思います。
 北条時政の後妻で、娘婿を将軍に擁立しようとして失敗し、夫と共に失脚したはずの牧の方が、承久の乱後の京都で、きわめて羽振りの良い生活をしていたことなどを考え合わせますと、死ぬまで「なよなよ」と安徳や一門の菩提を弔うことばかり考えていた旧態依然とした徳子のイメージを払拭したくもなってきます。
 最も尊敬する歴史学者である上横手先生に異論を唱えるのは、きわめて僭越な話しなのですが、小生はそのように考えております。あるいは、上横手先生も、今は大原終焉説を否定されているかも知れません。
 上横手先生の直弟子であられる元木先生や美川先生は、この問題についてどのようにお考えなのか、旅行中、ぜひうかがってみて頂ければと思います。

わかりました

No.1540

 野口先生、重ね重ね有り難うございました。
 この件、私は、以前からカルチャー・センターのような場で建礼門院の晩年のことを話すたびに、「私はその時は生まれていなかったので、事実かどうか知りませんが」といった枕詞で鷲尾説を話しては、内心ひやひやということの繰り返しなので、一度お伺いしてみたかったという次第です。
 私も角田説に説得力を感じますが、自分自身で見つけた新たな論拠は何もありません。ただ、「大原で若くして亡くなるっていうのは、いかにも語り本らしい話の作り方だよなあ」という程度の感覚はあります。『平家物語』としては、建礼門院は安徳天皇と一門の菩提を弔うことに、残りの人生のすべてを傾注してほしいというのが、物語としての要請でしょう。
 というわけで、元木先生、美川先生、旅行中のご教示、よろしくお願い致します。