2人目の逃亡者
美川圭
No.1247
私も、論文の修正とか、時雨亭叢書の校正から、逃亡して、ここにきてしまっています。
昔、大学院受験用に英語で読んだE.H・カーの『歴史とは何か』のなかに、現在や未来を知るために、歴史を知らなくてはならない、といった内容の記述があったように記憶しています。私は、このいいかたが、どうしても好きになれません。なんだか、非常に功利主義的なとらえかたで、それこそ足下をすくわれる気がするのです。
実学か否か、という問題があります。実学の反対は、虚学ですかね。歴史学は虚学であり、世の中の役に立たない、という方が真実に近い。だからこそ価値があるのだ。
この考え方は、前に上横手先生が「歴史をやったって、現在や未来を知ることにはならないよ。歴史はおもしろいからやってるんですよ」という趣旨(たぶん言い方については不正確です)のことをいわれたのを覚えていた、その影響が強いのです。
こういう考え方が、人間にとっては、社会にとっては、ほんとうに重要なんだ。役に立たないことをやる人間がたくさん生きている、あるいは生きられる社会をわれわれは作らねばならない、とかなり真剣に考えています。
お久しぶりです
山口博史
No.1249
野口先生が元木先生の新著「源満仲・頼光」を紹介されていましたので、早速手に入れて拝読いたしました。源満仲・頼光には興味がありましたので興味深く読ませていただきました。
このシリーズのなかには、野口先生も美川先生も書かれるようですので楽しみです。特に、美川先生の「後白河天皇」は特に個人的には興味があり、楽しみにしております。
先生方にもいろいろとご苦労がおありの様子、掲示板で読ませていただいておりますが、早く出版されることを希望します。
私たちのような歴史愛好家はテレビに左右されます。今年は新選組が人気で関連の著書が爆発的に売れているようですが、来年は義経です。それも楽しみです。
3人目の逃亡者
No.1251
英語の原文を日本語のゲラとつけあわせて、訳のおかしいところを直していく…という仕事がいやになって、ここに逃げてきました。
それとは別に、いま国吉康雄という画家の本を作っています。彼は、前世紀の初頭にアメリカに渡り、アメリカ人画家として名を成した人で、去年が没後50年にあたります。まだ没後50年ですので、歴史、というほどのこともなく、史料も日本とアメリカの両方にあるわけですが、アメリカというのはすごい国で、国吉に関する史料は、紙切れ一枚にいたるまで大切にスミソニアン協会アーカイブス・オブ・アメリカン・アートに保管されていて、誰でも閲覧できるらしいのです。
ところが、日本では、海燕という雑誌をかつて出していた出版社が作品なんかをかつて買い集めたらしいのですが、自分で維持管理できなくなると、地元の美術館に全部寄贈してしまったそうです(一応、委託だそうです)。それで、そんなにたくさん学芸員のいない美術館では、整理もままならず、いろんな史料が眠っているも同然らしいです。
こうした話は、いろんな分野であると思います。私としては、国や企業がこういうところにお金を使えばいいのにと思うのですが。それを若い研究者が調べに来る。そしてなんらかの形で発表する。美術館も、その研究に基づいて展覧会をやる。そうやって、みんなで面白いもの、面白そうなものを見つけていくのが、学問なんじゃないかなと思うのですが。別に、社会に役立たなくたって構わないというか、そういうことを面白がれる余裕のある社会がうらやましいですよね。
かぼちゃ人間1号
美川圭
No.1252
さっき、NHKのクローズアップ現代で、
遺伝子組み換え動物の話をやっていました。
なかでも、豚にほうれん草の遺伝子を組み込んだ、
「ほうれんそう豚」には唖然としてしまいました。
近大でつくったそうです。「ほうれんそう豚」の顔を見ていたら、なんだかもの哀しくなってきました。
豚とほうれん草を両方食べればいいことじゃないか。
こういうのが「実学」の極地でしょうね。
思い浮かんだのは、自分に植物の遺伝子が組み込まれたら、
なにがふさわしいかな、ということです。
なんか、かぼちゃかな。かぼちゃ人間第1号。
みなさんも、自分に、すいかとか、トマトとか、青ネギとか、
タマネギとか、スイカとか、ゴボウとか、そら豆とか、インゲンとか、だいこんとか、サツマイモとか、じゃがいもとか、チューリップとか、レンコンとか、組み込まれたことを想像して、しばし、わらってみましょう。
三匹の逃亡者。
No.1253
いやはや、逃亡仲間がお二人も加わってくださって本当に心強い限りです。
小生、昔のことですが「主任学芸員」という、何が「主任」なんだか分からない肩書きで京都の博物館に勤務していたことがありますが(もっとも千葉県のある博物館には「上席研究員」という人がいる。この「上席」というのは、まさか上等な椅子ということではあるまい?)、最近の博物館の場合は「実利」と言いましょうか「収益」に毒されているようです。
いくら内容の優れた展覧会を企画しても、客の入り(要するに儲け)が評価基準。客の入りが悪いと、学芸員のせいにされる。
ひところは、地方公共団体の博物館でも、館長に形だけでも研究者を置くところがあったのですが、このところは事務職あがりの人が多くなり、収益のことばかり考えているらしい(もちろん、事務職の人の中に、学問・芸術・文化に理解深い方がおられることも事実ですが)。「文化は遊び」です。金に換算できないものを人に与えるものですよ。人は金儲けのタネになるからと文学作品を読んだり、音楽を楽しんだりしますかね?
文化の分からない自治体の博物館による学芸員の人事というのは、上層部にとって管理しやすい程度の履歴で、それほど個性的で学究肌でない人間を採るようです。だから、博物館はすこしも良くならない。
かと思うと、学芸員の資格をとれば学芸員になれるかのような錯覚に陥っている学生さんが多いのも困る。適当な数の単位を取れば誰でも頂ける資格なんて、役に立つのは車の免許に如かずですよ。学生さんには、それぞれ余人をもって代え難い実力を磨いて欲しいものです。
この国の文化環境を、少しでも良い方向に向けるには、山口さんたちのような、ほんものの学問の成果を学習しようとされている市民の方たちの力が大きく作用すると思うのですが。
それにしても、やはり逃げてばかりではいけませんね。原稿用紙の鎧を身につけてうって出なければいけません。・・・と「躁」状態になったとき、また本一冊の執筆を引き受けてしまいました(石浜さん、すみません)。
「うって出る」で思い出しましたが、数日前の京都新聞に日文研の笠谷和比古先生が『ラスト・サムライ』を、とても高く評価した一文を寄稿されていましたが、どなたかお読みになりましたか?
Re: 逃亡者の戯言。
山田邦和(花園大学・考古学)
No.1254
美川先生、野口先生、こんばんは。
なんか、身につまされる話が続いていますね。とにかく、学問研究にたずさわる部分(大学も博物館も研究所も埋蔵文化財センターも)の全体が、「大氷河期」にはいりつつあるのは確かです。この厳しい時代をどのようにして生き残るべきか、真剣に考えねばならないでしょうね。