『研究紀要』第27号掲載拙稿の校正漏れについて
No.10266
お詫びと訂正
京都女子大宗教・文化研究所の『研究紀要』第27号に「十二世紀末における阿波国の武士団の存在形態-いわゆる「田口成良」の実像を中心に-」と題する拙論を発表致しました。
このところ、耄碌がひどいので、何度も校正の機会を与えて頂き、これなら大丈夫と安心していたのですが、もはや私には「完全」や「完璧」は期待できないもののようで、七「讃岐国の在地勢力と粟田氏」の注5本文が脱落しておりました。校正漏れをお詫び申し上げます。
そのため、77頁の注4に続けて、下記の注5を加えさせて頂きたく、お願い申しあげます。
(5) 『後白河院北面歴名』は、小松茂美「右兵衛尉平朝臣重康はいた─「後白河院北面歴名」の出現─」(古筆学研究所『水茎』第六号、一九八九年)に紹介されている。なお、ここに京武者や文士のみならず、下野の宇都宮朝綱や伊予の河野通信など、草創期の鎌倉幕府で活躍した地方武士の名が見えることは、拙稿「下野宇都宮氏の成立と、その平家政権下における存在形態」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』第二六号、二〇一三年)で指摘したところである。
京都女子大宗教・文化研究所の『研究紀要』第27号に「十二世紀末における阿波国の武士団の存在形態-いわゆる「田口成良」の実像を中心に-」と題する拙論を発表致しました。
このところ、耄碌がひどいので、何度も校正の機会を与えて頂き、これなら大丈夫と安心していたのですが、もはや私には「完全」や「完璧」は期待できないもののようで、七「讃岐国の在地勢力と粟田氏」の注5本文が脱落しておりました。校正漏れをお詫び申し上げます。
そのため、77頁の注4に続けて、下記の注5を加えさせて頂きたく、お願い申しあげます。
(5) 『後白河院北面歴名』は、小松茂美「右兵衛尉平朝臣重康はいた─「後白河院北面歴名」の出現─」(古筆学研究所『水茎』第六号、一九八九年)に紹介されている。なお、ここに京武者や文士のみならず、下野の宇都宮朝綱や伊予の河野通信など、草創期の鎌倉幕府で活躍した地方武士の名が見えることは、拙稿「下野宇都宮氏の成立と、その平家政権下における存在形態」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』第二六号、二〇一三年)で指摘したところである。